じじぃの「人の死にざま_1596_アナスタシア(ロシア最後の皇帝の娘)」

Alfred Newman - Anastasia Theme 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Gz6ckWLLn8M
Russian imperial family, 1914.

アナスタシアは生きていたという説もありますが本当ですか? 2012/4/1 Yahoo!知恵袋
回答
日露戦争に負けちゃうような王さまは要らない。
ニコライ2世と家族は全員銃殺されたが、アナスタシアは召使の機転で助けられた。が、記憶喪失となり乞食同然の暮らし。が、やがて亡命ロシア人たちの尽力で高位につく。というのはバーグマンとブリンナーの映画「追想」。現実には、DNA鑑定で別人と決着がついたはずです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1184748691
ニコライ2世 ウィキペディアWikipedia) より
ニコライ2世(Nicholai Aleksandrovich Romanov、1868年5月18日 - 1918年7月17日)は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 - 1917年3月15日)。
皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)。皇子女としてオリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女、アレクセイ皇太子がいる。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世やイギリス国王ジョージ5世は従兄にあたる。
日露戦争第一次世界大戦において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧したためロシア革命を招き、1918年7月17日未明にエカテリンブルクのイパチェフ館において一家ともども虐殺された。東ローマ帝国の皇帝教皇主義の影響を受けたロシアにおいて、皇帝は宗教的な指導者としての性格も強いため、正教会の聖人(新致命者)に列せられている。

                          • -

『「歴史」の意外な結末―事件・人物の隠された「その後」』 日本博学倶楽部/編 PHP文庫 1998年発行
ロシア最後の皇帝の娘アナスタシアは殺されていなかった? (一部抜粋しています)
1917年、ロシアの2月革命で、最後のロシア皇帝ニコライ2世は、退位させられたのち、皇后と5人の子供とともに捕えられ、翌年7月16日、監禁されていたエカテリンブルクで、一家全員が殺された。
ところが、このとき殺されたはずの皇帝の5人の子供のひとり、アナスタシアと名乗る女性が、その後ドイツに現れる。
1920年2月、ベルリン運河で投信自殺をはかった若い女性が、いっさい口をきこうとしないので、病院を退院後、ダールドルフの精神病院に送られた。
すると、1922年になって、そこの患者のひとりが、彼女のことを「タチアナ皇女に違いない」と言い出した。
それで、クライスト男爵という人物が彼女を引き取ると、彼女は男爵に、「私はアナスタシア皇女です」と打ち明けたのである。
ヨーロッパ各国の王家が彼女に興味を示し、アレクサンドラ皇后の妹のオルガが、かつて皇帝一家の家庭教師を務めたピエール・ジリヤールを派遣して、確かめさせた。彼は、最初、ホンモノと認めた。が、その後オルガ本人が彼女と会い、姪ではないと表明した。
      ・
彼女は、その後、アンナ・アンダーソンを名を変えた。ホンモノのアナスタシアかは結局不明のままだったが、1979年になって、ロシアのスベルドロフスク近郊の盛り土の中から11体の遺骨が発見された。近年DNA鑑定の結果から、この遺骨がニコライ2世やアナスタシアのものに間違いないといわれている。