乾隆帝 - あのひと検索 SPYSEE
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乾隆帝 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
乾隆帝(けんりゅうてい、1711年9月25日 - 1799年2月7日)は、清の第6代皇帝(在位1735年 - 1796年)。廟号は高宗。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。
【経歴】
乾隆帝の功績としてまず挙げられるのが「十全武功」(じゅうぜんぶこう)と呼ばれる10回の外征である。ジュンガル、金川、グルカに2回ずつ、回部、台湾、ビルマ、安南に1回ずつ計10回の遠征を十全武功と言って誇り、自分を十全老人と呼んだ。これにより清の版図は最大規模に広がり、また、ビルマ、ベトナム、ラオス、タイまで朝貢するようになった。
国内政治においては、雍正帝の時代に置かれた軍機処が、恒常的な政務機関となっていった。康熙・雍正期の繁栄にも支えられて国庫が充実していたため、民衆にはたびたび減税を行った。また、古今の優れた書物を書き写し保存するという文化的大事業である『四庫全書』の編纂や、上記の10回の外征も、こうした豊かな経済力を前提としていた。この時期には文化が大いに振興し、宮廷はきらびやかに飾られ、乾隆帝自身も数多くの漢詩を作った。乾隆帝はまた中国の伝統的な文物をこよなく愛し、現在も故宮博物院に残る多くのコレクションを収集し、たびたび江南へ行幸した(六巡南下)。これらの軍事的・文化的な成功により三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。自らも「史上自分ほど幸福な天子はいない」と自慢していたという。
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『井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
10の遠征を全うした男 乾隆帝 (一部抜粋しています)
清の第6代皇帝・乾隆帝は、清王朝が絶頂を極めた時期の皇帝である。
清の建国は1616年、明が滅亡するのが1662年であるから、明と清が並立していた時代は、46年間もあったことになる。清を建国したのはヌルハチという女真族の貴族出身の男であった。彼が女真族の統一事業に乗り出したきっかけは、25歳のときに父と祖父を明軍に誤って殺されたことであった。つまり、明への復讐である。しかし、彼の代で復讐を遂げることはできなかった。ヌルハチの時代の国号は、清ではなく「後金」である。国号を「清」と改めたのは1636年、第2代皇帝・太宗の時代のことである。満州で建国した清は、領土を広げながら南下し、第4代の康熙帝(こうきてい)のときに完全に明を併合する。太祖ヌルハチの復讐は、こうして4代を経て完遂されたのである。乾隆帝は、その康熙帝の孫に当たる人物である。
清を建設した女真族というのは、中国東北地方(満州)に住むツングース族の一派である。北方遊牧民族である彼らは「漢字」というものを持たなかった。しかし、それでは数の上で勝る漢民族を支配することは難しい。そのため清は、中国文化を多く取り入れながら同化していくことで国内を安定統治する政策をとった。清王室がもともとの「アイシンギョロ」という姓に「愛新覚羅」という字を充てたのもそうした同化政策の一環であった。 ・
乾隆帝が生まれたのは1711年、康熙帝の治世であるが、すでに明が滅亡してから50年が過ぎ、清の統治も安定を見せていた頃である。そのような時期に少年時代を迎えた乾隆帝は、祖父の康熙帝に愛され宮中で養育された。つまり、彼は生まれながらの皇帝なのである。
1722年に祖父が亡くなり、父である雍正帝(ようせいてい)が帝位を継いだ。乾隆帝は、その父の死によって、1735年に24歳で帝位に就く。帝位に就いたものの、国内は完全に統一され何の問題もない。問題がないどころか、イギリスやヨーロッパ諸国との茶・絹貿易により、清に大量の銀がもたらされ未曾有の好景気がもたらされた。こうした恵まれた経済条件は、乾隆帝を大がかりな軍事行動へと駆り立てる要因の1つになった。
乾隆帝は、その治世に10回もの大遠征を行っている。しかも、そのすべてに勝利を収めているのである。派兵した地域を現在の国名でいうと、台湾、ミャンマー、ベトナム、タイ、ラオス、チベット、さらに北方アジアやシルクロードの方にも派兵している。そして、チベットは清の完全支配下におき、東トルキスタンは征服後、新しい土地という意味で「新疆省」と名付け領土に組み込まれた。彼は晩年に、自らを「十全老人」と称すが、これは「「10の遠征を全うした男」という意味である。乾隆帝から約100年後の日清戦争では、清軍は近代化した日本の軍に敗北を喫するが、この時代の清軍は、世界の最強レベルにあったといえる。おそらくこの時代の清には、ヨーロッパの国がすべて束になってかかっても敵わなかっただろう。
乾隆帝とは直接関係ないのだが、中国の周辺支配ということに関して、ぜひ知っておいていただきたいことがある。それは、中国という国にとっては、中原と呼ばれる真ん中の土地が最も大切なものであり、周辺の土地というのは、野蛮人の住む場所ということで重要視していなかったということである。事実、現在の中国は、尖閣諸島を固有の領土だったと主張しているが、彼らがそんなことを言い始めたのは、あそこに石油資源があることがわかったつい最近のことなのだ。日清戦争に負けた中国が、台湾の領有権を日本に譲ったときも彼らは、あんな化外(けがい)の地(王化の及ばない地)は必要ないというようなことを言っている。乾隆帝も遠征した土地すべてを領土としているわけではない。清に臣従すればそれで十分だったのである。
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