じじぃの「人の死にざま_766_エカテリーナ2世」

エカテリーナ2世 - あのひと検索 SPYSEE
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麗しきロシア紀行ーⅣ エカテリーナ宮殿 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=chjY3UiP8pU
おろしや国酔夢譚 予告 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=E4WavakNsbg
世界遺産ドリームツアー! 究極の愛を求めて! 2015年3月24日 NHK
【司会】南原清隆首藤奈知子 【案内人】藤本隆宏
世界遺産には、世紀の「愛」の舞台となった遺産が数多くある。
ロシアのモスクワやサンクトペテルブルクをツアー。
広場にエカテリーナ女帝のとんでもない像!英名な啓蒙君主と言われる一方、12人の愛人がおり、「玉座上の娼婦」と呼ばれていた。 その愛を理解するポイントは?
サンクトペテルブルクにはエカテリーナが作ったエルミタージュ美術館がある。
この美術館にはエカテリーナがプライベートな時間を楽しむための「パビリオンの間」がある。入り口に掲げられていたエカテリーナの定めた10ヵ条を解説。プガチョフの乱について解説、暴動を鎮圧した5番目の愛人ポチョムキンにエカテリーナが惚れ込み、送った恋文は1162通も残っている。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/tour/
エカテリーナ2世 ウィキペディアWikipedia)より
エカテリーナ2世エカチェリーナ2世、1729年4月21日 - 1796年11月6日)は、ロマノフ朝第8代ロシア女帝(在位:1762年6月28日(グレゴリオ暦7月9日) - 1796年11月6日(グレゴリオ暦11月17日))。夫はピョートル3世、子にパーヴェル1世。
プロイセンのフリードリヒ2世(大王)やオーストリアヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされる。ロシア帝国の領土をポーランドウクライナに拡大し、大帝(ヴェリーカヤ)と称される。
日本では従来「エカテリーナ」の表記が多かったが、原音により忠実な「エカチェリーナ」の表記が普及してきた。
帝政時代にロシア帝国銀行が発行していた100ルーブル紙幣の肖像に描かれていた。また、現行の紙幣では沿ドニエストル共和国が発行する500沿ドニエストルルーブルに描かれている。
【治世】
豪放磊落で派手好みのエカテリーナ2世は積極的な外交政策を推進し、オスマン帝国との露土戦争露土戦争 (1768年)1768年 - 1774年、露土戦争 (1787年)1787年 - 1792年)や3回のポーランド分割などを通じてロシア帝国の領土を大きく拡大し、ボリショイ劇場離宮エルミタージュ宮殿(現在の小エルミタージュのこと。後に隣接する冬宮など新旧の宮殿と合わせ、現在はエルミタージュ美術館として一般公開)の建設にも熱心であった。対外的には啓蒙専制君主と見られることを好み、紛争における仲裁者の役割をしばしば努めようとした。これはそのままロシアの国際的影響力を高めるということでもあった。
オスマン帝国との2度にわたる露土戦争に勝利してウクライナの大部分やクリミア汗国を併合し、バルカン半島進出の基礎を築いた(南下政策)。第一次ロシア・スウェーデン戦争で、ロシア艦隊はフィンランド湾でスウェーデン海軍に敗れはしたものの(1790年)、英国とプロイセン王国の仲介により講和し、ロシアの国体には何の影響も及ぼさなかった。更にエカテリーナ2世は、第2次、第3次のポーランド分割を主導し、ポーランド・リトアニア共和国を消滅させた。 フランス革命にも関心を示し、1791年にスウェーデン王グスタフ3世の提唱した「反革命十字軍」の誘いにも前向きであったが(10月には軍事同盟を締結する)、結成は難航し、露土戦争の優先や1792年のグスタフ3世暗殺などで結成は実現化せず、第一次対仏大同盟にも参加しなかった事で、エカテリーナ2世の治世下ではフランス革命戦争への介入は行われなかった。結局の所、フランス革命に対する関心は高く無かったといえる。当時はロシアと利害の衝突する国の多くが脅威を感じていた以上、そこに積極的に関与する必要性は見出せなかった。
ロシアの文化・教育の整備にも力を注ぎ、英邁の誉れ高い女性側近ダーシュコワ夫人をアカデミー長官に据え、ロシア語辞典の編纂事業に着手、後世のロシア文学発展の基盤を造る。また、女子貴族のための学校「スモーリヌィ女学院」を設立し、ヨーロッパ諸国の宮廷・社交界に送り込む貴婦人の養成にも力を入れた。エカテリーナ2世自身も文筆に勝れ、回想録、書簡、童話、戯曲などの文芸作品を残している。
【日本人が見た女帝】
1783年、伊勢白子(現鈴鹿市)の船頭である大黒屋光太夫は、江戸への航海途中に漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。その後ロシア人に助けられ、シベリアの首府イルクーツクに滞在した。ここで学者のキリル・ラックスマンの援助で、帰国請願のためサンクトペテルブルクに向かい、1791年、エカテリーナ2世に拝謁して、帰国の儀を聞き届けられている。キリルの次男アダム・ラックスマンが、鎖国状態の日本に対して漂流民を返還する目的での遣日使節として日本に派遣され、1792年、光太夫らは根室に帰着した。

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井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
ロシアの女帝 エカテリーナ2世 (一部抜粋しています)
ロシアの女帝として名高いエカテリーナ2世は、実はロシア人ではない。彼女が生まれたのは1729年のプロイセン。一応は貴族の出身だが、それはどこかの国の王妃になれるような立派な家柄ではなかった。そんな彼女をロシアの皇太子妃に決めたのは、当時のロシアの女帝エリザベタだった。エリザベタにとって皇太子のピョートル3世は甥にあたる。彼はピョートル1世の娘アンナがプロイセンの名門貴族ホルシュタイン家に嫁して産んだ子どもだった。それをエリザベタが自らの後継者とするため、プロイセンから呼び寄せたのだ。エカテリーナが皇太子妃に選ばれたのは、彼女の母親がホルシュタイン家の出身だったことに因るといわれている。
2人が結婚したのは1745年、ピョートル3世16歳、エカテリーナ15歳のときである。ところがこのピョートル皇太子は、少々知能が低かったらしい。しかも、大のプロイセンびいきで、尊敬する人物はエリザベタの宿敵フリードリッヒ2世である。さらにピョートル3世は、プロイセンで生まれ育ったため、ロシア語もまったく話せなかった。非常に聡明な女性だったエカテリーナは、そんな夫に失望した。彼女も結婚当初はドイツ語しか話せなかったが、ロシア語を習い、カトリックからロシア正教に改宗し、さらには啓蒙思想を学ぶなどして政治に関する知識も旺盛に吸収していった。後に、外国人であるエカテリーナが帝位に推された理由は、彼女が聡明であったことと、もう1つは彼女自身がロシア語、ロシア正教、ロシアの風習などを熱心に学び、ロシア人になろうと努力していたことが挙げられる。
1762年1月、エリザベタの死によって、ピョートル3世がロシア皇帝に即位する。しかし彼は即位した途端に、それまでの7年戦争の激戦を無視し、フリードリッヒ2世と勝手に講和を結んでしまう。ピョートル3世は皇太子であった1760年にも、フリードリッヒの軍に大勝しながら、ベルリンに進撃することなく兵を退くという勝手を犯し顰蹙(ひんしゅく)を買っていた。そのためこの講和によって、それまで命を賭けて戦ってきた軍の不満が爆発した。その結果、同年6月28日、貴族や近衛連隊らがクーデターを起こし、ピョートル3世はわずか半年で退位させられてしまう。そして、新たな王として立てられたのがエカテリーナ2世であった。ピョートル3世はその後、王家の別荘に幽閉されていたが、ふとしたケンカがもとで同年7月に殺されてしまう。
エカテリーナ2世が即位して真っ先に取り組んだのは、法廷の整備だった。ロシアという国はヨーロッパの中では近代化の遅れた国で、皇帝が強圧的に国民を支配する「強権政治」が行われていた。その中で彼女は、ロシアを法治国家とするための手段として、法と法廷の整備に取り組んだのだった。そのときに彼女のブレーンとなったのが、ディドロというフランス人の啓蒙思想家である。啓蒙思想というのは、民主主義の前段階で、皇帝制が民主制に移行していく中で、民衆の政治的地位、あるいは政治参加の思想を説くものである。これは日本でも同じだが、近代以前は政治というものは「お上」が行うものであり、民衆は黙ってそれに従っていればいいという考え方が一般的だった。それを、そうではない。民衆も知識を身につけ国家の経営に参加するべきだと考えるのが、近代国家である。
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しかし、新しいことを始めるときというのは、必ず反対勢力の抵抗も生じるものである。彼女の場合、最も苦しめられたのは、半農半猟の独立騎馬兵の集団「コサック」の反乱だった。1773年に起きたこのコサックの乱は指導者の名を取って「プガチョフの乱」といわれる。指導者プガチョフは、自ら亡きピョートル3世を僭称(せんしょう)し、自分に従えば自由を与えると言ってコサックのみならず、ロシアの農民や工場労働者、さらにはタタール人なども含む300万人もの人々を扇動した。この反乱鎮圧にエカテリーナ2世はロシア軍の主力を充て、多くの犠牲者を出しながらも、1775年、プガチョフを捕らえてモスクワで処刑している。
多くの犠牲を払うこととなったが、この反乱を鎮圧したことで、ロシアの国内整備は一気に進んだ。それまでロシアというのは、あまりにも国土がひろいため、地方行政が中央のように整備することができないでいた。つまり、同じロシアの国内でありながら、地方ではその土地の独自のルールがまかり通っていたのである。しかし、プガチョフの反乱を制圧したことによって、結果的に中央の権力が国の隅々まで生き渡、ひとつの国としての形作りが成されたのである。つまり、ロシアを1つの帝国としてまとめ上げたのである。これこそが、彼女の最大の功績といえるだろう。

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