じじぃの「神話伝説_109_日くれて四方はくらく(賛美歌)」

Abide With Me (King's College Choir, Cambridge) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=deJDkU6qiGE&list=RDdeJDkU6qiGE#t=25
Beneath the cross of Jesus 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xI9sSqOYEU8
「日暮れて四方は暗く」 讃美歌 39番
http://sanbika.net/Abide_with_me.html
『賛美歌・聖歌ものがたり―疲れしこころをなぐさむる愛よ』 大塚野百合/著 創元社 1995年発行
天国をめざして 「日くれて四方はくらく」 (一部抜粋しています)
英米の有名な賛美歌を集めたCDには、よくヘンリー・F・ライトが作詞した「日くれて四方はくらく(Abide with Me)」(賛美歌39番、聖歌104番、教会賛美歌466番、古今聖歌集188番)が収録されています。わたしが最近聞いたイギリスの『愛好賛美歌集』というCDにも、この歌と彼のもう1つの賛美歌「讃えよ、わたしのたましいよ、天の父を(Praise my soul, the King of Heaven)」(賛美歌169番)「たたえよ、ひれ伏せ」、古今聖歌集355番)が入っています。
このCDは、1992年にビートルズで有名なイギリスのリヴァプールという町のリヴァプール大寺院で千名以上の聖歌隊が合唱したときの録音で、トランペットなどの金管楽器やドラムなどの打楽器が用いられているオーケストラが伴奏している珍しい賛美歌集です。ここには、英米でこよなく愛されている賛美歌が21曲収められていますが、1人で2曲入っているのは、ライトのものだけです。これを見ても、彼の賛美歌がどれほど人々の心を捕えているかが伺われます。
「日くれて四方はくらく」は、死を目前にしたこの牧師が、告別の歌として残したものです。ヘンリー・F・ライト(1793〜1847)は、幼い時から深刻な試練に出会った人です。スコットランドのケルソーの近くのエドナムという詩情豊かな町に生まれたのですが、陸軍士官の父と、母が相次いで亡くなり、幼くして孤児になるという悲運にみまわれました。その後、アイルランドの施設で育てられた彼は、優秀な青年となり、アイルランドの首都であるダブリンのトリニティー・カレッジで学びました。不運な境遇にあった彼は、試練を通してその魂に深みが与えられ、詩才が磨かれ、在学中3回詩を書いて賞を得るまでに成長しました。
輝かしい将来を約束されたかに見えた彼ですが、牧師として送られた所は、イギリス南部の西端のコンウォール州のマラザイアンという辺鄙な町でした。しかし、彼はこの世的な成功を望ます、イエスに従って、苦しんでいる人々の友になることを心から喜んでいました。そのようなある時、友人の牧師が死の床で苦しんでいるところを、彼は見舞いました。20代の若いライトとこの友は、2人で光を見いだそうと苦闘しました。死に臨んでいる友に、どのような慰めを述べるかわからず、彼はただ祈りました。そしてついに確信が与えられました。友を神が天国に導きたまい、祝福を与えたもうと。その牧師は、神の招きを信じて、安らかに召されました。
この経験によって、彼は、キリスト教信仰を新しく捉えなおしました。イエスの十字架を負って、すべてを捧げて生きる時、神と天国は自分のものとなるという確信を与えられて、新しい人間として蘇る喜びを感じました。この経験に基づいて書かれたのが賛美歌336番「主イエスよ、十字架を」(聖歌264番「十字架をイエスより」)だと言われています。3節ある原歌の第1節を訳してみます。
 主イエスよ、私は自分の十字架を負い、すべてを捧げて、あなたに従っています。貧しく、軽蔑され、捨てられたことが、主よ、今より後、私のすべてとなりますように、すべての野心よ、滅びよ。今まで求め、望み、知っていたすべてのものよ、滅びよ。なんと豊かなことでしょうか。今の私は。神と天国はつねに私のものです!
これを読むと、彼は人に欺かれ、軽蔑され、様々な人間関係の難しさに苦しんだことが伺われます。そのような現実の苦難を通して、彼は、イエスを仰いで、この世的な野心をすべて捨てて、イエスに従い、最後の勝利を確信していたことが分かります。
1823年、30歳になった年、彼はコンウォール州の東、デヴォン州ブリックスハム教区に移りました。ここは、イギリスの最南端の海岸にある小さな漁村です。富や権力をもつ人々とは縁のない、素朴な漁民たちが住んでいた所で、新しくできた教区でした。彼のような詩人肌の教養がある牧師は、普通あまり喜ばない任地でしたが、前述の賛美歌にあるように、野心を捨てた彼は喜んでそこに赴き、24年間死にいたるまで粉骨砕身の胞紙に励みました。
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「日くれて四方はくらく」の成立の事情については、諸説ありますが、次の話が事実ではないかと思います。アーネスト・エミューリアンによると、この歌は、彼の死の1847年ではなくその25年前にすでに草稿が書かれていtものを、ライトが最後の旅に出るための片付けをしているときに見つけ、それに手を加えたものだというのです。彼が以前レキサム教区のある老人の臨終に呼ばれた時、彼は終生忘れることができない感銘を受けました。その病人は、「いっしょにお泊りください!(Abide with me!)」と言って息が絶えました。エマオで2人の弟子が、復活された主イエスを引き留めようとして述べた言葉です(ルカによる福音書24章第29節)。
その時からこの言葉は彼の脳裏から離れず、それをテーマとしてこの歌を書いたのですが、すっかり忘れていました。1847年に病状は悪化し、イタリアへの転地療養を決意した彼は、9月4日の日曜日、家族が引き留めるのを振り切って告別説教をしました。講壇まではっていって説教したといいます。その後、海岸の岩の上でこの歌を手に入れたというのです。