じじぃの「神話伝説_105_心に主イエスを(賛美歌)」

「心に主イエスを」2013年7月21日大和カルバリーチャペル三礼拝特別賛美:聖歌隊&アンサンブル 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=mF1QJcF0qXM
わがたましいを〜讃美歌273A〜 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MjuLNPJNbXQ
『賛美歌・聖歌ものがたり―疲れしこころをなぐさむる愛よ』 大塚野百合/著 創元社 1995年発行
バッハとレンブラント 「心に主イエスを」 (一部抜粋しています)
天才的チェリストパブロ・カザルスは、13歳の時、ある1軒の店で偶然にバッハのチェロのための『6つの無伴奏組曲』を見つけました。この埋もれていた名曲を発見した彼が、《マタイ受難曲》を初めてパリで開いたときの感激について、コレドール著の『カザルスとの対話』はこう述べています。「ショックがあまりにも強くて、私は2ヵ月のあいだ、そのために病気になってしまった。私は窒息するような感じがし、思うように、泣くことさえできなかった。それほどの偉大さが私を打ちのめしたのだ。」(門倉一朗。渡辺健編『バッハ頌』白水社
わたしがこの《マタイ受難曲》(杉山好訳)に感動するようになったのは、1992年の夏からです。それまではビデオでこの曲を何度聞いても感激できなかったのですが、CDを手に入れて歌詞をドイツ語で読みながら聞くことのより、初めてバッハの心に触れることができました。そのCDの終わりに近い第65曲(旧第75)を何度も聞いているうちに、次のパスのアリアのたとえようもない不思議な美しさに心を奪われました。
 わが心よ、おのれを潔めよ、
 われはみずから墓となりてイエスを迎えまつらん。
 げにイエスはいまこそわが内に
 とこしなえに
 そのうましき憩いを得たもうべければ。
 世よ、出で行け、イエスを入らしめよ。     杉山好
エスの遺体をアリマタヤのヨセフが請い受けた箇所のあとに「ああ、あが魂よ、願えかし、行きて、死せるイエスを請い受けよ」とバスの歌声が響くのに続いて、このアリアが胸に染み込んできます。自分の心を潔めて、自分を墓としてイエスを自分の心に迎い入れ、そこでイエスが甘美な憩いを持ってくださるように、という杉山好氏の訳です。この歌詞にふれて、わたしは不思議に思いました。自分の心を死せるイエスの墓にするという考えに初めて接したからです。その歌詞に添えられた曲が絶妙であることを考えるとき、ここにバッハの個人的な切実な思いが隠されているはずだ、それを知りたいという願いを持ちました。
この箇所に触れたときのわたしの疑問は、1973年にアムステルダムの美術館でレンブラントの「ペテロの否認」という名作を見たときの疑問と同じものでした。遠くにいるイエスのまなざしに見詰められているにもかかわらず、3度イエスを拒んだペテロの表情があまりにも平安に満ちているので、これは彼自身の経験に関係があるのではないか、このペテロは彼自身ではないかと思いました。
帰国後調べてみてそれが事実であることを知りました。レンブラントは、妻のサスキアの死後、若い未亡人の家政婦ヘールトヘ・ディルクと同棲していましたが、その後、彼の愛はもう1人の23歳の家政婦ヘンドロッキェ・ストッフェルに移っていました。これを怒ったヘールトヘは、レンブラントを婚約不履行で訴えました。1649年のことです。彼は、その家政婦と肉体的な関係があったにもかかわらず、法廷でそれをきっぱり否認したばかりでなく、彼女を逆に訴えて7年間も牢獄に入れてしまいました。売春をしたという虚偽の訴えをでっちあげたのです。裁判所は、この高名な画家の味方をして、彼を無罪としました。この事件の10年後に彼はその罪を悔いてこの絵を描きました。ペテロの柔和な表情の中に、彼は殺された自分の画像を描きこみました。
     ・
フランチェスコが体でイエスを持ち運んだという言葉を引用しながら、わたしは、バッハのカンタータ第147番の《心と口と行いと生きざまもて》というタイトルと、その素晴らしい曲を想起していました。この曲は、賛美歌第2編228番「心に主イエスを」(「主よ、人の望みの喜びよ」というタイトルで有名)と深い関係にありますので、まずこのカンタータについて述べることにします。新約聖書のローマの信徒への手紙10章9、10節に基づき、「心と口と行いと生き方をもってキリストについて証(あかし)しなければならない」で始まるこの曲は、バッハの名曲の1つです。
バッハがこのカンタータを作ったいきさつについて、ワルター・ブラッケンベルグの解説(リヒター指揮のカンタータCD3枚組)によって述べてみます。バッハは1716年ヴァイマル待降節アドベント)のためのカンタータを書いていたのですが、どうしても思わしい作品ができずに苦労していました。彼はライプチヒに移り、1723年にその作品を「聖母マリアのエリザベツ訪問記念日用」に改作しているとき、前に採用したコラールをやめて、別の素晴らしいコラールを用いることにしたところ、彼の霊感が豊かに湧き、永遠に残るカンタータが生まれました。そのコラールは、マルティン・ヤーン(1620?〜83)というドイツのルターはの牧師が旧約聖書の雅歌に基づいて書いた「イエスよ、わが魂の喜び」と題するものです。