じじぃの「神話伝説_108_さかえの主イエスの(賛美歌)」

讃美歌142番〜さかえの主イェスの〜 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RrVbNSXZ_zE
When I Survey The Wondrous Cross - Fernando Ortega 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Tkx8WAycYAc
『賛美歌・聖歌ものがたり―疲れしこころをなぐさむる愛よ』 大塚野百合/著 創元社 1995年発行
世界の呪いを恵みに 「さかえの主イエスの」 (一部抜粋しています)
アイザック・ウォッツ(1674〜1748)は、英国における賛美歌の歴史に画期的な変化をもたらし、英語賛美歌の父と言われていますが、彼の賛美歌は、世界中のキリスト教界における至宝です。その彼の代表的な賛美歌である賛美歌142番「さかえの主イエスの」(聖歌158番、159番、教会賛美歌71番、古今聖歌集277番)は、多くの人々の特愛の歌であり、19世紀の英国の評論家マシュー・アーノルドは、英語賛美歌の中で、最も優れたものと激賞しています。
この歌に配されている「ハンブルグ」という曲が、明治15年位出版された日本最初の『小学唱歌集』初編の「隅田川」に用いられていることは、すでに述べました。グレゴリオ聖歌のある旋律からヒントを得て、米国の賛美歌作曲者ローエル・メーソンが編曲したものです。また、後述するように、ウォッツの賛美歌は大衆性のゆえに、19世紀の米国の黒人教会で最も愛好されたものです。彼が書いた子供のための「揺り篭の賛美歌」は、英米で「むすんでひらいて」の曲として多くの人に歌われたことも、後で触れたいと思います。
ウォッツは、優れや知性と虚弱な肉体を持った人間で、1702年、28歳のときにロンドンの富裕なピューリタンたちの教会の牧師になったのですが、病弱のためそこを辞し、それから36年の間、かつてロンドンの市長をつとめたトーマス・アブニーの家族の一員そして生活し、終生独身で過ごしました。彼が20歳のある日、父が役員であったサウサンプトンの教会に列していた時、当時歌われていた賛美歌が余りにも貧弱であることを嘆いて、自ら作詞をして周囲を驚かせました。彼は600以上の賛美歌を書いたのですが、それらは詩として格調が高く、イエスの十字架に対する彼の燃えるような愛が滲んでいます。
彼の賛美歌に生命がある秘密を探るために、彼の生涯をくわしく見てみましょう。
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ウォッツの賛美歌の多くが、庶民的なバラッド(素朴な民間伝承の物語)と同じ韻律である普通韻律という8・6・8・6の韻律をもっていることによって、大きな恩恵を受けた人々がいます。19世紀の米国の黒人たちです。ワイアット・T・ウォーカーという黒人音楽の専門家が書いた『だれかが私の名を呼んでいる』(梶原寿訳、新教出版社)というたいへん示唆に富む本が、それを伝えています。
著者によると、米国では、1760年ごろから1865年ごろまでを霊歌の時期とし、1807年ごろから1910年ごろまでを韻律音楽(ミーターミュージック)の時期としています。黒人韻律音楽とは、奴隷解放宣言後に一般的になった、元奴隷たちの賛美の歌い方を言います。リーダーが2行歌うと、会衆がそれを斉唱で繰り返して、4行連句を歌い、1つの歌を完結するとき、ハミングと似たもの、黒人バプテスト教会の伝統では、「うめき moaning」、または「なげき mourning」と呼ばれるものが2行続きました。
この韻律音楽で圧倒的に用いられたのがウォッツの賛美歌でした。それは、彼の歌に多かった8・6・8・6の大衆的な普通韻律が彼らに訴える力を持ち、また言葉が暗記するのに適していたからです。文字が読めなかった元奴隷たちは、歌詞を書いた本や、楽譜や、伴奏の音楽なしに、ただ指導者の口まねをして、ウォッツの心に迫る言葉に単純な節をつけて歌ったのです。ウォーカーの本についているカセットには、その実例が録音されています。
このような韻律音楽は、ウォッツの賛美歌を黒人化した歌ったもので、バプテスト派の黒人たちによって始められました。ウォッツのほかに、ウエスレー兄弟や、サンキーの歌が用いられることもありました。そして、面白いことに、韻律音楽の99%は、普通韻律であったことです。そして、著者は、この韻律は、今でも大衆的教会で用いられ、「それは黒人中産階級の教会ではほとんど歌われないし、さらに上層階級の教会ではめったに聞くことはできない」と書かれています。それでは、このように黒人たちの心を燃やしたウォッツの賛美歌が何を訴えているかを見てみましよう。
「さかえの主イエスの」
英語賛美歌の中で最も優れていると言われるこの賛美歌を直訳して見ます。
 1.あのすばらしい十字架を凝視するとき、そこで栄光の君が死にたもうた十字架を見詰めるとき、自分の最も豊かな利益を、私は損失と見なし、誇りにしているのもすべてを蔑みます。
 2.禁じてください。主よ、得意顔をすることを。わが神キリストの死以外のことを。私を最も曳つけるすべての空しいものを、主の血潮に犠牲として捧げます。
 3.見よ!主のみ頭、み手、み足より、悲しみと愛がしたたるのを! 愛と悲しみのこのような出会い、このように貴い荊の冠がかつてあったでしょうか。