じじぃの「神話伝説_48_孔子とその弟子」

孔子 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=tT-nTj88U-o
孔子とその弟子

【中国BBS】わが国が墓穴を掘った孔子平和賞って覚えてる? 2013/10/21 サーチナ
中国の学者らからなる中国郷土文化保護協会が2010年12月に創設した「孔子平和賞」は、平和に貢献した人物に対してその功績を顕彰する中国の賞だ。
ちなみに、第1回孔子平和賞受賞者は、台湾の連戦国民党名誉主席だったが、受賞を拒絶した。香港の団体が引き継いだ第2回はプーチン大統領が受賞したが、授賞式には参加せず、ロシア人留学生がトロフィーを受け取った。第3回はアナン前国連事務総長と、中国の水稲育種の専門家、袁隆平氏に決定したようだ。果たして第4回孔子平和賞はあるのか、そして誰が受賞するのだろうか?
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=1021&f=national_1021_007.shtml
『中国人物伝春秋戦国‐秦・漢 1 乱世から大帝国へ』 井波律子/著 岩波書店 2014年発行
放浪する知の巨人 孔子とその弟子 (一部抜粋しています)
孔子(本名は丘(きゅう)、あざな仲尼(ちゅうじ))は、周王朝が弱体化し、各地に依拠する諸侯が入り乱れて覇権を争う春秋時代(前770 - 前403)の後半、小国魯(山東省)に生まれた。孔子の生年に関しては諸説あるが、ここでは司馬遷の『史記孔子生家により、紀元前551年説をとる。没年は紀元前479年、ときに73歳。
孔子の父は叔梁紇(しゅくりょうこつ)という士(武人)であるが、母の顔(がん)氏は正妻ではなかったようだ。孔子はこの武人の父から、ずばぬけて強健な身体を受けつぎ、身長は九尺六寸(漢代の尺度では約2メートル20センチ)、「長人」と称されたという。まさに威風堂々、ひよわな知識人とはおよそ似ても似つかぬ風格の持ち主だったのである。
父の叔梁紇は孔子が生まれてまもなく死去し、母の顔氏に育てられたが、やがてその母とも死別したらしい。孤児として貧窮のなかで成長した孔子はあらゆる機会を求めて、礼法などを学び、文化的教養を積み重ねた。その一方、生計を立てるために魯の貴族に仕え、倉庫の管理や家畜の世話をした時期もあった。
苦労のかいあって、30歳ころには学問の基礎ができあがり、すぐれた学者として社会的に認められるようになり、弟子入りする者もふえた。このころ、周王朝の基礎を基礎を築き、魯の始祖でもあった周公旦(しゅうこうたん)を手本とし、仁愛と礼法を中心とした節度ある社会の到来をめざす、孔子儒家思想の骨格もできあがったとおぼしい。
孔子はみずからの理想を実践に移すべく、政治参加を志すがその機会はなかなか訪れなかった。春秋時代後半は下剋上の嵐に見舞われた季節であり、孔子の故国魯もご多分にもれず、政治の実権は三大貴族(三桓。魯の桓公の子孫である季孫氏、孟孫氏、叔孫氏)がにぎるなど、混乱の極みにあった。
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孔子は非常に音楽を好んだが、それよりもはるかに大きな喜びをおぼえたのは、すぐれた弟子たちと語り合うことであった。
孔子の言行録『論語』には、さまざまな苦難を乗り越えてきた大いなる師孔子と、彼を敬愛する弟子たちの関係が、鮮やかに映しだされている。孔子は偉大な師ではあるが、まったく偉ぶることなく、あるがままに弟子たちと向き合い、弟子たちも孔子を敬愛しながらも、けっして崇めたてまつることなく、わからないことがあれば、「何の謂(いい)ぞや(どういう意味ですか)」と、率直に質問を投げかけた。純な熱血漢の子路(しろ)などは、ときには気色ばんで、孔子に食ってかかることさえあった。まさに羨むべき師弟関係である。
孔子には77人の高弟がいたとされ、『論語』にも、「徳行には、顔淵(がんえん)、閔子騫(びんしけん)、冉伯牛(ぜんはくぎゅう)、仲弓(ちゅうきゅう)。言語には宰我(さいが)、子貢(しこう)、政事には、冉有(ぜんゆう)、季路(きろ)。文学には子游(しゆう)、子夏(しか)」(先進十一)と、徳行、言語(弁舌)、政事(政治)、文学(学問)の4つのジャンル(孔門四科と称される)において、それぞれすぐれた高弟10人の名を列挙したくだりがある。とりわけ、顔回(がんかい)あざな子淵(顔淵とも称される)、端木賜(たんぼくし)あざな子貢、仲由(ちゅうゆう)あざな子路(別のあざなが季路)の3人は特記すべき存在であり、孔子に深く愛され信頼された。
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貧しい孤児であった少年時代から、次々に愛弟子を失った最晩年に至るまで、孔子の生涯は波瀾万丈、困難の連続であった。しかし、孔子はいかなる苦境も持ち前のユーモア感覚と不屈の精神で、みごとに乗り切り、明朗闊達に生きた。放浪する知の巨人、孔子はまことの健やかな人だったのである。
たとえば、孔子はその思想の格をなす「仁(思いやり)」について語るときも、けっして肩肘はらず、身近なたとえを引きながら、次のように具体的に述べる。
 子曰、民之於仁也、甚於水火、水火吾見蹈而死者矣、未見蹈仁而死者也。
 子曰(いわ)く、民の仁に於(お)けるや、水火よりも甚(はなは)だし。水火は吾(われ)蹈(ふ)みて死する者を見る。未だ仁を蹈みて死する者を見ざる也。
  (先生は言われた。「人々が仁を必要とする度合いは、水や火を必要とするより激しく深いものがある。しかし、水や火を踏んで死ぬ人は見かけるが、仁を踏んで死んだ人は見たことがない」)