じじぃの「人の死にざま_1455_子貢(孔子の弟子)」

論語天道解12-07子貢問政 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=G8xKhHkCz38
  

子貢 ウィキペディアWikipedia
子貢(しこう、紀元前520年 - 紀元前446年 )は孔子の弟子にして、孔門十哲の一人。孔子より31歳年少。
春秋時代末期から戦国時代にかけて活躍した。本名は端木賜(たんぼくし)。姓が端木、名は賜、字が子貢。衛の人。弁舌に優れ衛、魯でその外交手腕を発揮する。また、司馬遷の『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。孔子死後の弟子たちの実質的な取りまとめ役を担った。唐の時代に黎侯に封じられた。

                        • -

史記の風景』 宮城谷昌光/著 新潮社 1997年発行
孔子と子貢 (一部抜粋しています)
孔子の弟子は「七十子(し)」といわれる。
その70人のなかで、もっとも富んだのは子貢(端木賜)であり、もっとも貧しかったのは原憲(子思)であろう。
子貢は孔子が亡くなってから、衛(えい)と曹(そう)のあいだに住み、投機をおこなって、財産をふやした。子貢は外出するときはつねに4頭立ての馬車に乗り、騎馬の供をしたがえたようであるから、いかにかれが豪勢であったか想像するに難くない。子貢を迎えた各国の君主は対等の礼を行なった。孔子の偉大さを天下に知らしめたのは、子貢の力が大きい。
たとえば、子貢が斉(せい)の景公に面会したとき、
「あなたはどなたを師となさっておられるか」
と、問われた。孔子がまだ生きているころの問答である。
「仲尼(ちゅうじ)がわたしの師です」
と、子貢はこたえた。仲尼は孔子のあざなである。
「仲尼は賢いですか」
「賢いです」
「では、その賢さは、どのようなものですか」
「存じません」
景公はいぶかしげに眉を寄せた。
「あなたはその賢さを知っているといいながら、どのように賢いかは知らぬという。それでよいのですか」
それにたいして子貢はたくみな比喩をもちいてこたえた。
「たとえばいま、天は高いといいます。子どもも大人も、愚者も智者も、みな天が高いことを知っております。では、天の高さはどのようなものなのか、ときかれたら、みな、知らない、とこたえるでしょう。それとおなじように、仲尼の賢さがどのようなものかは知らないのです」
つまり孔子の偉大さは天の高さとおなじようにはてしがない、と子貢はいったのである。諸侯に会った子貢は、さまざまな比喩をもちいて孔子の偉大さをつたえたにちがいない。
    ・
思想家は弟子の良否により、その像が増減させられる。孔子は子貢を弟子にもったことにより、その像はかぎりなく高くなったといえる。