じじぃの「人の死にざま_1428_林・子平」

 林子平著 『海国兵談』

林子平 ウィキペディアWikipedia)より
林 子平(はやし しへい、元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。
高山彦九郎蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人。名は友直。のちに六無齋主人と号した。
【経歴・人物】
宝暦6年(1756年)正式に仙台藩士として150石が下された。しかし、この年の5月に宗村が死去すると、友諒は家族を引き連れ、仙台川内に移住した。子平は部屋住みの身で妻子は持たなかったが、仙台藩士として生活するようになった。
子平はみずからの教育政策や経済政策を進言するが聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢宇田川玄随桂川甫周、工藤平助らと交友する。ロシアの脅威を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著し「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して当時の人びとを驚かせた。『海国兵談』の序を書いたのは、仙台藩医工藤平助であった。また『富国策』では藩の家老佐藤伊賀にあて藩政について説いたが、採用はされなかった。
『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書であったため、出版に協力してくれる版元を見つけることができなかった。そこで子平は、16巻・3分冊もの大著を自ら版木を彫り、自費出版で須原屋市兵衛から刊行した。『海国兵談』は寛政3年(1791年)、仙台で上梓された。しかし幕閣以外の者が幕政に容喙するのはご法度であり、両著はともに発禁処分が下され、『海国兵談』は版木没収の処分を受けることとなった。しかしその後も自ら書写本を作り、それがさらに書写本を生むなどして後に伝えられた。
『学校では教えてくれない日本史の授業』 井沢元彦/著 PHP文庫 2013年発行
日本の危険性を見抜いていた男 (一部抜粋しています)
黒船が大ショックをもたらしたということは、それが日本人にとって予期せぬ出来事だったからなのですが、本当に誰も予想していなかったというと、違うのです。日本人はそれほどボンクラではありません。ちゃんと気づいて、警鐘を鳴らしていた人もいました。
それは「林子平」という人です。林子平については社会人のための教科書である『もういちど読む山川日本史』にも触れられています。
 1792 (寛政4)年に、林子平が『海国兵談』などを出版して海防の必要を説いたのに対し、いたずらに無用の説をたてて人心を動揺させたとして、処罰した。
                       (『もういちど読む山川日本史』192頁)
林子平が書いた『海国兵談』という本は、技術的なことがもう変ってしまったので、今読んでもほとんど意味がないのですが、ただ1つ、今でも通用する言葉が、この本にはあります。
残念ながら、山川の教科書にはその言葉は記載されていません。桐原書店の教科書『新日本史B』にはその言葉が引用されていますが、囲みで記載されているだけで、本文に記述はありません。そして、皮肉なことに桐原書店の教科書では、その記事はモリソン号の記述の前のページに載っているのです。恐らくこれは、代々の先輩執筆者が引用していたので載せただけで、その意味がわかっていないからだと思います。
モリソン号が日本に来る40年以上も前に、林子平は『海国兵談』の中で次のように述べています。
「江戸の日本橋より、唐・阿蘭陀(オランダ)まで境なしの水路なり」
このままでも言っている意味はわかると思います。要するに、日本の日本橋の下を流れている海(川)は、中国やヨーロッパを流れている海(川)とつながっている、ということです。
林子平は、この時点ではまだ蒸気船のことを知りません。それでも、日本の国がなぜ安全だと考えられているのかということを突き詰めたとき、それは「海があるから」という大前提に立っていることがわかりました、そして、そのことがわかったとき、もしもこの大前提が崩れたら日本は大変なことになる、ということに気づいたのです。蒸気船のことなど知らなくとも、過去の歴史を見て考えれば、未来に生じる危険性に気づくことができる。こういう「気づき」こそ、私は歴史の効用だと思います。