じじぃの「人の生きざま_423_小林・千登勢」

おくやみ 女優小林千登勢さんが多発性骨髄腫で死去 2003年11月26日 日刊スポーツ
女優小林千登勢さんが03年11月26日午前0時27分、多発性骨髄腫のため、都内の病院で死去した。66歳だった。
6年前から骨髄腫の疑いをもたれ、3年前に正式に診断され、女優業を続けながら病気と闘い続けていた。83年にNHKの大ヒットドラマ「おしん」に出演するなど女優として人気を集める一方、クイズ番組の解答者、ワイドショーのコメンテーター、エッセー出版など幅広く活躍した。
http://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2003/pe-031126-1.html
小林千登勢 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%8D%83%E7%99%BB%E5%8B%A2/6570
小林千登勢

多発性骨髄腫 がんプロ.com
発生率:わが国の骨髄腫の発症率は人口10万人あたり2人程度と考えられています。これは悪性腫瘍の1%、造血器腫瘍の10%を占めると言われています。
http://www.gan-pro.com/public/cancer/hemat/346.html
小林千登勢 ウィキペディアWikipedia)より
小林 千登勢(こばやし ちとせ、1937年2月13日 - 2003年11月26日)は、女優・タレント。本名は山本 千登勢(やまもと ちとせ)。夫は俳優の山本耕一。愛称は「おっかさん」である。
【人物・経歴】
朝鮮・京畿道京城府(現:大韓民国ソウル特別市)生まれ。戦後福岡県八幡市(現:北九州市八幡東区)に引き揚げ、後に東京に移る
高校卒業後、文学座の研究生となり、1958年にNHKと専属契約を結ぶ。以後、『輪唱』『伊豆の踊り子』『廃市』など、多くのテレビドラマに出演。清純さの中にどこか哀愁を漂わせた美貌で人気を集め、馬渕晴子冨士眞奈美とともに「NHK三人娘」としてテレビ草創期のスターとなった。
1965年に、山本耕一と結婚し、「おしどり夫婦」としても有名であった。
2003年11月26日午前0時27分、多発性骨髄腫のため、東京都内の病院で死去。66歳没。

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爆報THEフライデー 2014年6月20日 TBS
【司会】爆笑問題 【出演者】田原俊彦アンガールズオリエンタルラジオ友近テリー伊藤、その他
▽女優 小林千登勢の晩年…骨が溶ける病
妻に先立たれた夫・山本耕一は今…79歳一人暮らし、引きこもりに…残されたホームビデオに小林千登勢の最後の姿が!
http://www.tbs.co.jp/bakuhou/
中高年のためのお役立ち情報サイト
●小林千登勢さんを襲った骨の溶ける多発性骨髄腫とは 爆報!THEフライデー
小林千登勢を覚えている方も多いと思います。
女優としては、NHK鳩子の海」では鳩子のお母さん役、「おしん」では奉公先の女将さん役。
朝日放送の「おはようワイド・土曜の朝に」では14年間司会を務めました。
http://4050life.com/desease/titose_bakuho/
2014年6月20日 TBS 爆報!THEフライデー 「女優 小林千登勢の晩年…骨が溶ける病」より
テレビで山本夫妻がインタビューを受けている映像が出てきた。
この夫婦を覚えているだろうか?
小林千登勢を覚えている方も多いと思います。女優としては、NHK鳩子の海」では鳩子のお母さん役、「おしん」では奉公先の女将さん役。朝日放送の「おはようワイド・土曜の朝に」では14年間司会を務めました。
80年代にはワイドショーの司会者やクイズ番組のバネラーなどマルチに活躍。「おっかさん」の愛称で親しまれました。
28歳の時にドラマでの共演がきっかけで2歳年上の俳優 山本耕一さんと結婚。一人娘を授かった2人は夫婦で度々テレビ出演。ドラマでも夫婦役を演じるなど芸能界一のおしどり夫婦と憧れられました。しかし2003年11月26日、千登勢さんは亡くなりました。
38年連れ添った妻を亡くした山本さんは、多くを語らず口を閉ざしてきました。しかし今回、11年の沈黙を破り、知られざる妻との闘病生活を初激白していました。
1997年、当時60歳ながら仕事で多忙を極めていた千登勢さんはちょっとした疲労もあり病院で血液検査を受けました。すると、骨が溶ける病・多発性骨髄腫にかかっていることが発覚。いわゆる血液のがんです。多発性骨髄腫は脊髄や骨盤など骨髄の中の細胞ががん細胞化することで起こります。がん化した形成細胞は骨髄のいたるところで増え、腫瘍の塊を作ります。その際、がん細胞が骨を破壊しながら増え続けるために強烈な骨の痛みを伴うという恐ろしい病です。また感染症や肺炎、意識障害など多くの合併症を引き起こすことから死に至る可能性が極めて高いと言われています。そのため、がんの中でも最も完治させるのが難しいと言われ発症年齢は60代以降が多く、原因は不明です。そして山本さんは医師から妻が余命5年と伝えられました。山本さんは千登勢さんに血液のがんであることだけを伝え、余命5年であることは隠しました。
多発性骨髄腫の宣告から2ヵ月後、貧血や倦怠感が頻繁に起こるようになった千登勢さん。それでも千登勢さんは病気であることを公表せずテレビに出演し続けました。医師は千登勢さんに抗がん剤を勧めましたが、女優として生きるために拒否。別の投薬での治療を続けました。しかし病気は徐々に進行していきました。
多発性骨髄腫の宣告から5年8ヵ月、腰に強烈な痛みを感じ自分で靴も履けなくなり、杖なしで歩くことも困難に。さらに車のブレーキのショックだけで骨折。病が進行すると日常の動作でも加重により骨が圧迫され骨折してしまうほど骨が脆くなってしまうのです。それでも千登勢さんはカメラの前で本当の病名は明かさず、ぎっくり腰と言い張り、決して仕事を休もうとはしませんでした。
多発性骨髄腫の宣告から5年11ヵ月、急激に病は悪化していきました。胸水がたまり肺を圧迫し呼吸困難に。さらに自分一人の力で排泄ができない状態に。もはや満身創痍で体はボロボロでした。それでもつらいそぶりを見せず、死の2週間前までテレビや講演活動を引き受けていた千登勢さんは2003年11月26日に亡くなりました。
最愛の妻が亡くなり、家に引きこもって10年。山本さんは、あることがきっかけで立ち直ります。それは、亡くなってから決して見なかった家族のホームビデオです。そこには、病気で苦しい中にありながら、いつも笑っていた千登勢さんの姿がありました。
テリー伊藤、「夫婦が一緒に死ぬということはないじゃないですか。どちらかが先に死にますね。残された人生をどんな風に、その後の人生を生きていけばいいのか。そういう1つの手本を見せてもらった気がします」