じじぃの「人の死にざま_1337_加賀・千代」

加賀千代

加賀千代女 ウィキペディアWikipedia)より
加賀千代女(かが の ちよじょ、1703年(元禄16年) - 1775年10月2日(安永4年9月8日))は、俳人。号は草風、法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。
朝顔を多く歌っていることから、出身地の松任市(現・白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔を選んでいる。白山市中町の聖興寺に、遺品などを納めた遺芳館がある。

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『日本史の中の女性逸話事典. 歴史を彩った女性たち』 中江克己/著 東京堂出版 2000年発行
加賀千代――俳句ひとすじに生きた女 (一部抜粋しています)
朝顔に釣瓶(つるべ)とられてもらひ水」
この有名な句で知られる加賀千代は、元禄16年(1703)、加賀国松任で生まれた。父は、表具師の福増屋六左衛門だが、書画や和歌、俳句などの表装を手がけていたせいか、俳句を好んだ。
千代は、その父の影響を受けた。幼いころから父の仕事場に出入りし、美しく表装されたものにふれて、俳句に興味を抱くようになったのである。11、2歳のころ、父のすすめで奉公に出た家の主人から俳句の手ほどきを受けた。
その後、千代は家へ戻る。享保4年(1719)17歳のとき、松尾芭蕉門下の各務支考(かがみしこう)が北越を行脚している途中、福増屋に逗留するということがあった。千代は支考に教えを乞い、句作の腕をみがいた。
翌年、金沢藩の足軽福岡弥八のもとに嫁いだが、結婚生活のしあわせは短かった。長男弥市を生んだものの、千代が20歳のときに夫が病死し、その翌年には長男の弥市も死んでしまった。
「とんぼつり今日はどこまで行ったやら」
この有名な句は、千代が亡くなった愛児を偲んでつくった句とされる。千代はやむなく実家へ戻り、家業を手伝いながら句作に励んだ。もっとも千代の生涯には謎が多く、近年では、千代は結婚しなかったという説が有力視されている。
千代は23歳のとき、はじめて俳句修行の旅に出る。京や伊勢をまわり、山田(三重県伊勢市)に住む中川乙由(おつゆう)に会った。乙由は、平俗軽妙な句風で知られる伊勢派の中心人物で、千代は乙由から指導を受けたのである。
松任に帰ってからは、多くの俳人と交流し、居室を「草風庵」と名づけて句会を開いた。その後も、千代は江戸や尾張など諸国を旅して歩いた。
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千代は、やむなく家業の福増屋を継ぎ、表具屋の仕事をつづけながらも句作に励んだ。やがて、六兵衛という養子を迎え、彼が一人前の表具師になったのを見届けて、福増屋を六兵衛にゆずった。宝暦4年(1754)、52歳のときのことである。
千代は隠居と同時に剃髪し、素園と号した。江戸時代は女であることを差別されがちだったが、女流俳人たちは尼になって表面上、女を捨てるというかたちをとった。尼であれば、句会で男と同席するにも不都合なことがなかったからだ、
明和元年(1764)には『千代尼句集』を、つづいて明和8年(1771)には『松の声』を出版している。しかし、晩年の千代は、持病の喘息に苦しみつづけた。しまいには病床に臥すようになったが、それでも句作はやめない。
安永4年(1775)、千代は73歳の正月に、初孫の袴着の祝いを迎えて、
「初空に手にとる富士のわらひ哉」
と詠んでいる。千代が息を引き取ったのは、この年の9月8日である。家族や愛弟子たちに別れを告げ、生涯のしめくくりとして、つぎの句を詠んだ。
「月を見て我はこの世をかしく哉」