じじぃの「人の生きざま_325_森・浩一」

森浩一さん 地域に勇気を与えた考古学 2013.8.28 MSN産経ニュース
戦後考古学の礎を築いた考古学者で、同志社大学名誉教授の森浩一さんが8月6日、85歳で亡くなった。なによりも現場を重視し、遺跡の保存にも尽力した森さん。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130828/art13082807470003-n1.htm
森浩一 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%A3%AE%E6%B5%A9%E4%B8%80/5827
邪馬台国「九州」説の逆襲 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=kUZTCyfCwBs
森浩一 ウィキペディアWikipedia)より
森浩一(1928年7月17日 - 2013年8月6日)は、日本の考古学者。同志社大学名誉教授。専門は日本考古学、日本文化史学。
【活動】
著作には、『渡来人』『検証 古代日本と百済』『巨大古墳』『僕が歩いた古代史への道』『日本神話の考古学』『記紀の考古学』など多数がある。作家の松本清張司馬遼太郎黒岩重吾とも交流があった。司馬遼太郎とは数回「街道を行く」で取材に同行している。また松本清張の考古学についてのアドバイザーでもあった。

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文藝春秋 2013年10月号
蓋棺録 「森浩一(もりこういち)」 (一部抜粋しています)
考古学者・森浩一は、戦後の考古学ブームをリードし、分かりやすい言葉で「古代」への道案内をした。
小学5年生のとき川で遊んでいると、砂の中にあった破片に足が触った。「古代の土器の破片だと触感した」。しかし、学校の先生に見せても、「古代の遺物が落ちているはずがない」というだけだった。
そこで、父親の本棚にあった辞典や歴史書で調べて、破片が須恵器の一部であると確信する。このとき以来、森は「考古学者」になった。
1928年(昭和3)年、大阪に生まれる。父親は百貨店の図案部長。小学生のときから考古学を独学し、旧制中学時代には発掘に参加していた。同志社大学で英文学に入ったのは、学徒動員で英語が勉強できなかったのを取り返すためだったという。
大学時代にも、黒姫山古墳の発掘を事実上主導して、高校の教師になってから、その報告書が刊行された。「学者になるには大学院卒の肩書がいる」とアドバイスしてくれた人がいて、同志社大学大学院の文化史学専攻に入りなおす。
日本の考古学の隅々にまで通じていたので、若いころから大家の入門書の下書きをしたが、やがて自分の本を次々と書いた。65年の『古墳の発掘』はロングセラーとなった。76年の『考古学入門』は考古学ファンの少年たちが争って読んだ。
学生時代から若い研究者の集まりである考古学研究会を主宰し、会誌『考古学研究』を刊行して、自由な議論を呼び掛けた。「対談やシンポジウムで平凡なことをしゃべり、物事を深める力のない人は、たとえ高名であっても私は興味がもてない」。
東大や京大といった学閥に属していなかったので、自由に論争を展開した。主流だった小林行雄の「三角縁神獣鏡魏鏡説」に対しても「この種の鏡は、中国では一枚も出土していない」と論じて、卑弥呼が魏から下賜されたという説を批判した」
また、邪馬台国論争では九州説にも大和説にもくみしないで、「九州の邪馬台国が東に移動して大和朝廷になった」という東遷説を唱えた。
論争家だったが人懐っこい性格で、分野を超えて多くの文化人との交友が知られた。
古代史への関心を介して黒岩重吾松本清張司馬遼太郎などの作家と交わり、アジア考古学との結びつきから騎馬民族征服説の江上波夫と親しくなり、日本史の根本的な見直しについて歴史家の網野善彦と繰り返し語らった。

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森浩一 考古学 Google 検索
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