じじぃの「人の死にざま_1250_ウラジーミル1世」

Viking heritage in Ukraine 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=TRcRpp0_aIM
ロシア民謡メドレー1 (混声合唱 歌詞付) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ZLjlCOEMfEA
ウラジーミル1世 ウィキペディアWikipedia)より
ウラジーミル1世(955年頃 - 1015年7月15日)は、リューリク朝、キエフ大公国キエフ大公(在位:978年6月11日 - 1015年7月15日)。スヴャトスラフ1世と侍女マルーシャの子。子にはヤロスラフ1世やボリスとグレプがいる。キエフ大公国キリスト教化した。キリスト教正教会カトリック教会・聖公会ルーテル教会)の聖人で、亜使徒・聖公ウラジーミルと呼ばれる。祭日は7月15日(7月28日)。「太公」、「聖公」、「赤日」とも呼ばれる。

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『世界史の叡智 - 勇気、寛容、先見性の51人に学ぶ』 本村凌二/著 中央公論新社 2013年発行
ウラジーミル1世 国教を酒で決めたロシアの祖 (一部抜粋しています)
もともと8世紀末ごろから、バイキングと呼ばれるノルマン人がロシア平原にも進出していた。彼らは航海術にすぐれ、ボルガ水系やドニエプル水系を伝わってカスピ海黒海に出ながら、豊かなアラブ世界やビザンツ世界をめざしていたらしい。だが、先住民を征服しても抵抗運動は激しく、また遊牧民の襲撃から通商路の安全を確保しなければならなかった。それには長い年月が必要だった。
中でもノルマン人らしく勇猛な武将スビャトスラフは南進してドナウ川流域に大帝国の建設を志していた。しかし、その勢力が強大となるのを恐れるビザンツ帝国軍と戦って敗れ、和平条約を結んで帰国する途中、遊牧民に襲われて殺される。ほどなく彼の息子たちによる兄弟争いがおこり、殺し合いの末に第3子で庶子のウラジーミルがキエフを拠点とする勢力の首長になった。彼は隣接する周辺地域を次々と征服してブルガリアにまで遠征し、ビザンツとは和平を結んで守りを固めた。
覇権国家になったとはいえ、領内には諸種族が入り乱れ、宗教も不統一で原始信仰がなお盛んであった。ウラジーミルにとって統一国家の柱となる宗教は、何よりも求められるべきものだった。
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それぞれの宗教について調査させ、最終的にビザンツの国教であるギリシャ正教を受容することに決定した。
このときの各宗教についての評価は興味深く、なかでもイスラム教についての評定には胸にしみるものがある。一夫多妻は好ましいが、酒を飲まないことにはなんの魅力も感じなかったらしい。ウラジーミルは「ルーシ(ロシア人)には飲むことが楽しみなのだ。それなしには生きている甲斐がない」と言ったという。
もちろん、このような物語の記述がどこまで事実であるかは心もとない。だが、伝説や伝承はときとして往時の世相を映し出しており、後世の読者をしてなるほどと思わせるものがあるのだ。
ことの真相は、どうやら実益と絡んだものだったらしい。ビザンツ皇帝から反乱軍鎮圧の援軍要請があったので、ウラジーミルは皇妹アンナを迎える条件でこれに応じたのである。それにともなって、988年、ウラジーミル自らもギリシャ正教の洗礼を受けている。
伝承によれば、5人の妻と800人の愛妾(あいしょう)とも別れ、古来の神像を打倒し、さらにキエフの全住民をドニエプル河畔で集団洗礼させたという。かなり過激な改革であったが、このギリシャ正教への改宗は、その後のロシア社会に計り知れないほどの影響をおよぼしている。
改宗にとどまらず、血讐(報復殺人)を規制する司法活動、教育の普及などにも精力をそそいだ。また、遊牧民の襲撃から国土を防衛し安全な商業路を確保することに努めている。そのために民話や民謡では、草原の民からロシアの地を守った勇士、輝ける太陽として語り継がれてきた。

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