じじぃの「人の死にざま_1151_色川・武大」

色川武大 - あのひと検索 SPYSEE
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Radio2.4km@youtube No.95 review vol.1 [ 色川武大 阿佐田哲也全集〈6〉] 動画 YouTube
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色川武大 「あの人に会いたい」色川武大のインタビュー 動画 デイリーモーション
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色川武大 ウィキペディアWikipedia)より
色川武大(いろかわたけひろ、1929年3月28日 - 1989年4月10日)は、日本の小説家、エッセイスト、雀士。筆名として色川武大(いろかわ ぶだい)、阿佐田哲也(あさだ てつや)、井上志摩夫(いのうえ しまお)、雀風子を名乗った。阿佐田哲也名義では麻雀小説作家として知られる。
【略歴】
東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区)矢来町生まれ。父親は40代の若さで退役した海軍大佐であった。
1941年旧制第三東京市立中学(現・東京都立文京高等学校)に進学。1943年からは勤労動員で工場で働くが、ガリ版同人誌を密かに発行していたことが露見し、無期停学処分を受ける。
1945年に終戦を迎えるが、無期停学処分のままだったために進級も転校もできず、結果的に中学を中退。父親の恩給が止まったため、生活のため以後5年ほどかつぎ屋、闇屋、街頭の立ち売り、博徒などの職を転々とし、アウトローの生活へ身を投じる。
後に執筆した『麻雀放浪記』の主人公「坊や哲」や「女衒の達」さながらのバクチ修行をし、サイコロ博打や麻雀の腕を磨く。稼いだ時は上宿へ泊まり、文無しになった際は野宿をした。このギャンブル没頭時代に、後に彼の人生自身の哲学となる「ツキの流れを読んでそれに従う」「欲張りすぎず、(相撲でいえば)九勝六敗を狙う」などの考えを身につける。
やがて1950年(昭和25年)頃から各種業界紙を転々と渡り歩くようになる。1953年(昭和28年)には桃園書房に入社。事実上アウトローの世界より引退。『小説倶楽部』誌の編集者として藤原審爾山田風太郎のサロンに出入りをする。特に、藤原には「人生の師匠」とまで傾倒していた。
1968年(昭和43年)に『週刊大衆』に「阿佐田哲也」名義で発表した『天和の職人』などで「麻雀の牌の並びが小説中に記載されている麻雀小説」を発明する。
1969年(昭和44年)に、やはり『週刊大衆』に連載を開始した自伝的小説『麻雀放浪記』シリーズで若い読者の圧倒的人気を得て脚光を浴び、世は麻雀ブームとなる。以後、麻雀小説を多数執筆し、その影響で「麻雀専門誌」や「麻雀専門劇画誌」などが生まれ、その多くに阿佐田は執筆した。
1989年(平成元年)4月3日、前の月に引越したばかりの岩手県一関市において心筋梗塞で倒れて病院に運ばれる。適切な手当の結果、一命を取りとめたと思われたが、1週間後の10日、入院先の宮城県の病院にて心臓破裂で死去。享年60。一関に移り住んでわずか10日後の事であった。

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『半身棺桶』 山田風太郎/著 徳間文庫 1991年発行
雀佛(じゃんぶつ)枯野抄 (一部抜粋しています)
年齢的に、友人知人の訃報(ふほう)をきくこと稀ではなくなったこのごろだが、4月10日、色川さんの死を急報されたときほど驚いたことはない。病気とは全然知らなかったからである。
しばし口もきけないほどであったが、やがて彼についてのさまざまな記憶が脳裡をながれはじめた。
まず、私が色川さんを知ったのはいつごろからだろうと考える。去年の12月に出た「オール讀物」の臨時増刊に、私の旧作につけ加えて色川氏が、昭和20年代の無頼な私について小文を書き――おそらく彼が私について書いてくれた最後の文章だろう。――その中に「そのうち素敵な美少女が奥さんになり、山田さんの素行もおさまるかと思いきや、今度は麻雀に凝り出して徹夜の連続である」とある。
「素敵な美少女」とは、彼の天性の1つでもあったサービス精神のなせる恐れいった表現だが、それはともかく家内が私のところへ来たのは昭和27年だから、それ以前からのつきあいだったと見える。
してみると、私もまだ20代の終わり、色川さんは20代の初めだった。私は世田谷の三軒茶屋に住み、彼はある雑誌の編集者で、のちに彼は当時を「編集小僧の時代」と書いている。
私がひとり泥酔して快気焔をあげている前で――そうなると一切記憶を失ってしまうのが、当時から今にいたるまでの私の習いだが――おとなしく膝をそろえてかしこまっていた、どちらかといえば痩せぎみで、長い髪の毛をひたいにフサフサさせていた好青年の色川武大の顔が、ふしぎに記憶に残っている。神妙な顔をしていたけれど、腹の中では何を考えていたやら。
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マージャンといえば、色川さんともよくマージャンをした。そのころ私は練馬の西大泉に移っていたのだが、遠慮会釈もなく必要メンバーを練馬の奥まで呼びつけた。おたがいに若いということは、遊ぶことにかぇて骨惜しみしないもので、当時電報で招集するのに(電話もない時代だった)みなたちまち馳せ集まったのは、いま考えるとふしぎである。その中に、多くの場合色川さんがいた。
さっき色川氏の文章を紹介したが、「素行がおさまると思いきや、マージャンで徹夜の連続」と、ひとごとのように書いているけれど、本人がのちに阿佐田哲也(朝だ徹夜)と名乗ったほどではないか。
そのころ、暮れの27、8日ごろから大晦日まで、わが家に10人くらい泊りづめでマージャyンをやり、正月3日間休むと、こんどは4日から6日ごろまでやったことがある。終わりの日くらいになると、みんな憔悴し、ひげぼうぼうになり、伝馬町の大牢の囚人みたいになってしまったが、このときも色川さんがいた。
この間、みんなうちで飯を食うわけだが、後年1日6度飯を食うと伝えられた色川武大だが、ふしぎに特別大食漢であったという記憶はない。
色川氏はすでに『麻雀放浪記』の時代を終えたあとと思われるが、こちらは色川さんがそんな戦歴を持つ大名人だとはついに気がつかなかった。ほかのだれも気づかなかったようだ。そんなに大勝していないのである。たいてい2位か3位ぐらいなのである。
のちに彼がエッセイで、「適当に遊んであげていたのだ」という意味のことを書いているが、おそらくそうだったにちがいない。
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色川さんが成城の借家をひきはらい、東北に引っ越した、という思いがけない消息を耳にしたのも、本人からではなく、人を介してのことである。しかし、それから1ト月たつやたたずで、その地で急死するとは。――
心筋梗塞を起こしたのは、その引っ越しの疲れと、まだ春に至らない土地の寒さのせいではないか、もう1ト月引っ越しを遅らせたらどうだったのだろう、と、痛恨の思いを禁じ得ない。
東京生まれ、東京育ちの彼が、なぜ縁もゆかりもない遠い土地にゆく気になり、はては命を落とすことになったのか、詳しいいきさつは私は知らない。
しかし想像するのに、彼はあまりにもやさしいデリカシーとサービス精神に富みすぎて、そのためにまわりに多くの敬愛者を集めたのだが、一方そのため「仕事」には無用の煩いに悩まされることが多く、それら一切を捨てて、これも彼の本性の1つである孤独の世界へ赴こうとしたのではあるまいか。
60歳で死んだことはいまの世の中では決して長命とはいえず、特に仕残した仕事の多さを思うと彼も残念だったにちがいないけど、一方また、かねて野タレ死さえ覚悟の上はおろかあこがれていたかに見える彼としては、むしろ年齢的には長生きしすぎたと思っているにちがいない。
引っ越して1ト月といえば、それは旅だ。そういう枯野のみちのくでの死に方も、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」と、彼はどこかうす笑いを浮かべていたのではなかろうか。

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