じじぃの「人の生きざま_342_筑紫・哲也」

筑紫哲也さん死去 NEWS23前キャスター 73歳 2008年11月7日 asahi.com
政治・外交から文化まで幅広く報道するテレビキャスターとして長く親しまれ、雑誌「朝日ジャーナル」編集長も務めた朝日新聞編集委員筑紫哲也さんが7日午後1時50分、肺がんのため都内の病院で死去した。73歳だった。
http://www.asahi.com/showbiz/tv_radio/TKY200811070335.html
筑紫哲也 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E7%AD%91%E7%B4%AB%E5%93%B2%E4%B9%9F/61532
阿川佐和子×筑紫哲也 .mp4 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=wT3z1A6ua4A
最後の多事争論 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=nZwhehGt1uU
乳がんの陽子線治療を受けられる病院 UASオンコロジーセンター
近年注目を集めている、がんの陽子線治療をご存知でしょうか?
陽子線治療の費用は約300万円。厚生労働省より先進医療として認可されたもので、費用は保険適応外、つまり全額患者自身の負担となります。
痛みはほとんどなく、身体の負荷は非常に少ない治療法ですが、現在、陽子線治療に向いていると考えられるがんは、頭頚部(鼻腔や副鼻腔、唾液腺・頭蓋底など)、肺、肝臓、前立腺、膀胱、食道、膵などの原発性がんに加え、直腸がん術後の骨盤内再発や単発性の転移性腫瘍(肝転移、肺転移、リンパ節)などで、乳がんは適応外となっています。
少し前に「女優の樹木希林さんが、乳がんの陽子線治療を受けた」というニュースをお聞きになられた方もいらっしゃることと思います。
樹木さんは治療を受けるため、鹿児島県にある「UASオンコロジーセンター」という病院に転医しました。この病院で再発した乳がんの陽子線治療(ピンポイントの放射線治療)を受けた結果、樹木さんのがんは消えて無くなったといいます。
UASオンコロジーセンターは、2006年10月に開院した比較的新しい病院で、2008年に亡くなったニュースキャスターの筑紫哲也さん(享年73)が、全身にがんが転移した状態で、最後に頼った病院としても知られています。
http://www.breastcancer-ranking.com/yousisen.html
筑紫哲也 ウィキペディアWikipedia)より
筑紫 哲也(ちくし てつや、1935年(昭和10年)6月23日 - 2008年(平成20年)11月7日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。 
朝日新聞社記者、朝日ジャーナル編集長、TBSテレビ『筑紫哲也 NEWS23』メインキャスター、早稲田大学大学院公共経営研究科客員教授(専任扱い)、立命館大学客員教授、市民団体・自由の森大学「学長」等を歴任。また、雑誌 『週刊金曜日編集委員、『潮賞』(雑誌 『潮』)「ノンフィクション部門」選考委員も務めていた。
【家族・縁戚】
イラストレーターの筑紫ゆうなは次女。父の従兄弟(父方の祖母の妹の子)に、田中小実昌
滝廉太郎との縁】
滝廉太郎は大伯父(滝の妹・トミが筑紫の祖母)。筑紫自身はかつて「私には音楽の才能がないので、私が『滝廉太郎の親戚』であるということを非常に戸惑っていた」と述懐している。筑紫は1993年から、竹田市にある滝廉太郎記念館の名誉館長を務めていた
【喫煙】
ハイライトとマルボロの赤を1日3箱吸っていたというヘビースモーカーだった。肺がんになって禁煙した後も、「一服できないと面白くない」、「百害あって一利なしと言うけど、文化は悪徳が高い分、深い。(たばこは)人類が発明した偉大な文化であり、たばこの代わりはありませんよ。これを知らずに人生を終わる人を思うと、何とものっぺらぼうで、気の毒な気がしますね」「がんの原因はストレスで、たばこはきっかけにすぎない」と怯まなかった。

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筑紫哲也 永遠の好奇心』  週刊朝日MOOK 朝日新聞出版 2009年発行
筑紫哲也 X 僕 X パパ (一部抜粋しています)
父のガンは極めて悪性で、あらゆる治療とかかなりのリスクを冒さなければ太刀打ちできない。完治はほとんど奇跡に等しい。そう前置きして、親友の父親に起きている「奇跡」を伝える。
「余命6ヵ月って、本当に医師がそう告げたのか?」
父の興味は漢方薬アロエジュースよりも「余命」という言葉にあった。しまった。
「パパの場合はまだまだ治療の余地もあるし、余命云々の次元じゃないよ。そんなことより、ガンをサバイブしている人たちをお手本にするのがいいと思う。現に友達のお父さんは結果を出しているわけだし。それに抗ガン剤の副作用も軽減するらしいよ」
「オーケー。じゃ、やってみましょ」
07年5月、ガン治療開始。
まずい漢方薬と、けっして美味しいとはいえないアロエジュースとともに、抗ガン剤投与と放射線治療が始まった。脱毛以外、これといって深刻な副作用はない。
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僕は「筑紫哲也」の仕事をほとんど知らない。故に、その仕事を敬ったり、批判したりする立場にはない。
ただ、父と僕には「無類の麻雀好き」という共通項がある。「勝負師・筑紫哲也」は心得ている。
父は同僚、作家、芸術家、政治家、文化人、ミュージシャン、芸能人……そして母と僕、様々な人を相手に卓を囲んだ。麻雀の神様、作家の阿佐田哲也さんのお相手を務めたほどである。
僕は、父の麻雀伝を聞くのがなにより好きだった。朝日新聞社員という顔の裏側で覗かせる、アウトローな数々のエピソード。早稲田のエースは完全に疑わしいが、「勝負師・筑紫哲也」は尊敬に値しそうである。病気になって、麻雀を打てなくなったことはじつに気の毒だった。もう一度、朝までとことん、父と勝負をしてみたかった。
筑紫哲也」という仕事が無理となると「食」を楽しんでいただくしかない。父の注文に応じて、僕と母は腕を振るった。
父の好物は、母のつくる芋の煮っころがしと卵かけのご飯のセット。このメニューを軸に日替わりで麺類、スープ類、カレー、中華、うなぎ、すし……何でもござれ。IHコンロを病室へ持ち込んで、すき焼きを作ったりもした。長細い病院の机をちゃぶ台に、おかずを広げる。父と母はベッドに腰掛け、子どもたちは茶碗を持って立ち食い。毎晩、こんな調子。かけがえのない時間。
突然、父が胸のうちを明かすようなことを言った。
「僕はさぁ、存分に人生を楽しんできてね。病気になってからは、何一つそれが叶わなくなったわけだけどね。後悔することがあるとすれば一つだけ。家族ともっと一緒に過ごせばよかった……」
父の目から一筋の涙が溢れている。
「よかった。やっとわかったんだね」
と母は返した。
治療、湿布貼り、アロエジュース、料理……。ついにやれることがなくなった。
「パパ、鹿児島で本当によくがんばったね、もう、そろそろ東京へ戻ろうか?」
そうたずねた母に、父は小さくうなずいた。
肺ガン発覚から18ヵ月。東京へ戻って11日の昼すぎ、父は息をひきとった。コンピューターの余命宣告より6ヵ月の長生きだ。

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