じじぃの「人の生きざま_285_さだ・まさし」

さだまさし - あのひと検索 SPYSEE
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精霊流し/さだまさし 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=tUyWnuYvdBc
さだまさし ♪関白宣言 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=lPvfUEbb6nU
さだまさし ウィキペディアWikipedia)より
さだまさし(本名:佐田雅志、1952年4月10日 - )は、日本のシンガーソングライター、タレント、小説家。ファンとスタッフの間では「まっさん」の愛称で親しまれている。身長は165cm。血液型はA型。
【概要】
フォークデュオのグレープでメジャーデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「雨やどり」「関白宣言」「親父の一番長い日」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など、数々のヒット曲を生み出す。
1980年、映画『翔べイカロスの翼』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は原田美枝子)にサーカス団のピエロの青年役として主演、音楽も担当。一方、翌1981年にかけ、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画『長江』(主題歌は「生生流転」)を制作した(1981年11月公開)。映画自体は120館上映というヒットであったものの、それ以上に制作費をかけ過ぎたため、約28億円(さだ曰く金利を含めると35億円)もの負債が残った。
2013年7月19日現在、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手でもあり、回数は実に4000回を越えている。トークの軽妙さはテレビ・ラジオ・コンサートのMCにて大きな魅力とされている。
小説家としても活動し、『解夏』『眉山』などの作品を発表している。
國學院高等学校卒業、國學院大學法学部中退。趣味はゴルフ。1983年に結婚し、一男一女の父である。
弟はさだ企画社長で元サッカー選手でもある佐田繁理。妹は歌手の佐田玲子。長男はユニット「TSUKEMEN」のメンバーとして2010年にメジャーデビューしたヴァイオリニスト・TAIRIKUこと佐田大陸。長女は2011年にメジャーデビューするピアノ・デュオ「Pretty Bach」のメンバーの佐田詠夢

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『 逃げない―13人のプロの生き方』 小松成美/著 産経新聞出版 2012年発行
さだ まさし (一部抜粋しています)
1952年4月10日、さだまさし長崎市で誕生した。
雅志と名付けられた佐田家の長男は、幼いころから音楽の才能を煌(きら)めかせた。3歳でバイオリンを習い始め、小学校を卒業する頃には、プロのバイオリニストを目指すことになる、のだが。
しかし、彼がその後たどるレールは、幾度もカーブを描き、大仰(おおぎょう)なポイント切り換えを繰り返した。誰もがバイオリンのソリストかコンサート。マスターになると思ったクラシック一筋の少年「佐田雅志」は、還暦を迎えるまでに、毎年100本に及ぶコンサート・ツアーを行い、年間20万人を超える観客を動員する不滅のシンガー・ソングライターさだまさし」になっていた。
「自分でこれまでを振り返ると、わぁ人生ってこんなに凄いことがいっぱい起きるんだねって、感激しますよ。映画のシナリオだってここまでは書けません。こんな怒涛のドラマ、誰も思いつきませんもの。今は、大好きな仲間と、3日に一度ステージに立って、スタジオでレコーディングして、音楽を作っていることの幸せをじわじわ感じています。やっと我慢せず、なんでもできるようになりましたから」
2012年4月に迎えた60歳の誕生日。さだは、これまで自分の来(こ)し方を見守り続け、コンサートに足を運んでくれたファンとともに還暦を祝いたいと、スペシャルライブを思い立った。
「4月10日、さいたまスーパーアリーナを押えてチケットを販売したら、1万4000枚が数十分でソールド・アウトになったんです。ありがたかったですね」
演出は信頼するプロヂューサーに委(ゆだ)ねた。
「フジテレビのきくち伸プロヂューサーに、チケットは売り切ったから安心して、今までのさだまさしのステージで見たこともないようなことを演出してくれって、言ったんですよ」
このコンサートを、ファンといつも一緒にステージに立っているコンサート・スタッフへのプレゼントにしたい。そう思ったさだは、プロヂューサーに「刺激を与えてくれよ」と頼んだ。
「ファンの方々にも見たことのないステージを見せたかったし、もう1つはスタッフの心を揺さぶりたかった。スタッフを観客席に座らせて、『客観的さだまさし』を見せつけることが大きなテーマでした」
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1972年11月、20歳のさだは、高校2年生からのバンド仲間であった吉田政美と「グレープ」を結成し、プロとしてスタートを切った。
「当時、僕らは、ジェリー・グッドマンというジャズバイオリン弾きのバンドをコピーしていました。そのうち、吉田がバイオリンとギターだけのユニットがないことに気づいて、『これは発明だ』なんて言っているうちに、ジェリーとジョン・マクラフリンが『ナハビシュヌ・オーケストラ』としてバイオリンとギターのユニットでめちゃめちゃ高度なことを始めたんですよ。僕らはすっかりへこんで『細々とフォークソングをやっていこうや』と話したんです」
60年代、アメリカのフォークソング・シンガーは若者の心をとらえた。ギターを手にメッセージソングを歌うボブ・ディランニール・ヤングジョニ・ミッチェルらは世代の代弁者として脚光を浴びた。
日本でもフォークの人気は凄まじかった。1969〜71年、岐阜で日本初の大規模な野外フォークコンサート「中津川フォークジャンボリー」が開催され、自作自演の曲をギターで弾き歌う若者たちがステージを目指した。アリス、かくや姫、吉田拓郎井上陽水といった時代の歌手が登場する中、一世代若いさだと吉田はそのブームの中央にいたわけではなかった。
「僕らはフォークブームの本当に最後のほうに乗っかれたか、どうかです。ところが、そんな僕らの曲を聴いた小柳ルミ子さんのディレクターの塩崎喬さんが東京に誘ってくださった。それが、プロとしての始まりでした。僕は本名の佐田雅志さだまさしにします。漢字を書くのが面倒で平仮名にしました。
ユニット名の「グレープ」はひょんなことから決まった。
「東京に出る前に、長崎放送のディレクターのおかげで、小さなコンサートができることになり、バンド名が必要になった。どうしようと考えたとき、吉田が譜面の真ん中にいつも描いていたぶどうの絵に目が留まったんです。それで『グレープでいいよ』と僕が言いました。単純な、でも僕にとっては天から与えられた名前なんですよ」
1974年4月、2作目のシングル『精霊流し』が発表される。まだ無名のフォークデュオの風変わりな楽曲は東海ラジオの深夜番組で繰り返し流されると、やがて全国的なヒットとなり、その年の日本レコード大賞作詩賞を受賞するのである。
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さだは、負債(映画『長江』の制作)を背負った困難な時代にも、決して、音楽という表現の手段を手放さなかった。
1992年の長崎・普賢岳の噴火災害のチャリティー・ライブや、1987年から20年間続き、原爆投下の地で生まれた彼の使命でもあった平和祈念コンサートは、彼がステージに立ち続けたからこそ実現した。
デビュー40周年という節目を迎えても、仲間と音楽を作る喜びは薄まることがない。
「作りたい曲は、数え切れないくらいあって、それをいつ完成させ、いつ世に送り出すか、常にそのことを考えています」
スタジオでのセッションでは毎回違った化学反応が起き、新しい音の糸が束になって編み上げられていく。
「いまや音楽はデジタル信号で作ることができますが、僕はミュージシャンが集まったときに生まれるアナログのパワーを信じたい。僕自身がそのパワーに魅せられているんですね」
借金という不自由が取り払われた今、さだは楽しみのための時間に手を伸ばす。それはもう貪欲に。
「忙しいライブの合間を縫って何作も小説を書いたことも、それが自分には必要な表現の手段だったからでしょうね。今は、もっと奔放に愉快なことにも時間を使っていますよ」
自由を謳歌するさだは、いまだ立ち止まる記配は見せない。
「父と母、憧れの加山雄三さんを見ていたら、還暦など通過点でしかないですからね」

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