じじぃの「科学・芸術_572_阿刀田高『隣の女』」

直木賞作家の阿刀田高さん 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BQ5R4X-FxOk

集英社新書 短編小説のレシピ 阿刀田高【著】
800編もの短編小説を生み出してきたマエストロがみずから解説・案内する、短編小説の醍醐味。
短いだけに、あらゆる技法を駆使した作品は、おもしろさも多彩。小説創りの源泉と技をも教えてくれる。向田邦子芥川龍之介松本清張中島敦新田次郎志賀直哉夏目漱石ロアルド・ダールエドガー・アラン・ポーなど10人の作家の、名作やユニークな作品を具体例として選んで特徴を解説し、短編の構造と技法に迫る。短編小説をより楽しく読むためにも、また書くためにも役立つヒントが満載。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0274766
『短編小説のレシピ』 阿刀田高/著 集英社新書 2002年発行
阿刀田高 <隣の女>そして、その他の短編 より
阿刀田高昭和10年(1935)東京に生まれた。生家は豊かであったが、16歳のときに一家の大黒柱である父が他界し、さらに当人が肺結核にかかって2年間の療養生活を余儀なくされた。相当に逼迫した20代を体験している。
幼いときから読書好きであり、小説のたぐいもよく読んでいたが、
「少なくとも高校2年生くらいまでは理系の志望でしたね」
発想の根底にこの傾向は見え隠れしている。
また自分の読書については、
「わがままな読書でした。自分の好きなものしか価値を認めない。先生や先輩がよいものをいくら勧めてくれても、おもしろくなければ軽蔑する。後年考えてみて、そのため損をしたこともたくさんあったけれど、自分が本当に好んだものを通して”人はなにをおもしろいと斧うものか”エンターテインメントの原点を自分なりに会得したようです。これは職業作家として大切な資質であったかな、と思ってます」
とのこと。中学生のころの愛読書は芥川龍之介野村胡堂の<銭形平次捕物控>そして出版社もわからない3冊本の落語全集であったとか。
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阿刀田高は800編近い短編小説を発表している。その中にあって<隣の女>は代表作と評されるものではないが、構造的に短編のレシピとなるものを含んでいる。ひとつの典型としてこれを俎上に載せてみよう。
登場人物はまず江尻恭子。33歳。離婚をして小学生の娘とふたりで都心のマンションに暮らしている。食品研究所に勤務して、そこそこの生活、良識を備えた普通の女性である。
夜9時過ぎ、マンションの電話が鳴り、旧友の桑田晴美が急に訪ねて来る、と言う。初めからどこかちぐはぐな電話だった。
晴美とはさほど親しい仲ではない。その証拠に、ここ十数年会っていない。消息も、つい先日、葉書が舞い込んで来ただけだ。とはいえ中学生のころの記憶をたどってみると、晴美には仲のいい友だちなんかほとんどだれもいなかった。1番親しいのが恭子だったろう。近くに来ているのなら仕方ない、会うだけ会ってみよう。
訪ねて来た晴美はひどくおびえていた。1昨年結婚して夫とふたり、一戸建ての家で仲むつまじく暮らしているが、隣に住む女がひどい。晴美の生活にあれこれ干渉する。晴美も度とに仕事を持っているので、昼間は家を空けていることが多いのだが、隣の女はそれが気に入らない。とりわけ困るのは到来物のこと。隣家が接近しているので配達人は隣家に荷物を預けて帰る。それを取りに行くといろいろ厭味を言われる。「いつも留守ばっかりね。女は家にいたほうがいいのに」などと生活の方法にまで高圧的に文句をつける。
話を聞いてみれば確かにひどい女だ。
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話しあううちに夜も更けた。「家に帰るのが怖い」と呟く晴美をなだめて恭子は車で送っていく。すると……晴美の夫が隣家で寛いでいるらしい、と知って恭子はたったいま自分が抱いた疑いが事実に近い、と確信を深める、トラブルの原因は愛情のもつれ、と……。
作品の最後を引用して示そう。恭子の運転する車が晴美の家の前に着いたところだ。
  新築の小さな家。そのすぐ隣に、もう1つ小さな家がある。そのほかの家はみんな空地を距(へだ)て、道を距ててほどよい距離を保って建っている。2軒だけがもたれあうように並んでいる。1番よく仲よく暮らさなければいけない2件が、いがみあっているなんて……。
  「ここよ。マイ・スイート・ホーム」
  晴美の指差す家は暗かった。
  隣の家の窓には灯がついている。窓いっぱいに暖色の光が溢れている。人の動く影が映った。玄関の灯がともった。車の音を聞いて、隣の家が動きだしたらしい。
  街頭の光の中で、晴美の顔が引きつっている。
  「彼、こっちにいるのよ」
  「えっ?」
  ――やっぱり――
  恭子は白刃の閃きのように事態を覚(さと)った。嫉妬の原因はほかにあったのだ。2つの影はいかにも親しそうに揺れている。届け物のトラブルなんか、氷山の一角にしかすぎない。
  ――晴美は気づいていたのかしら――
  気づかぬはずもない。知っていながら、そのことだけに恭子にも話したくなかったのだろう。
  「あの女が彼を取っちゃうの」
  声は、細くそう聞こえた。
  眼の中に狂気を思わせるほどの憎悪が宿っている。恐怖が宿っている。
  だが……なにもかもほんの短い時間の出来事だった。
  男は届け物らしい紙包みを2つぶらさげて晴美と恭子のほうへ近づいて来る。背後に隣の女が続く。
  「遅かったな」
  男は呟きながら妻と並んで立っている恭子の姿を認めた。おおかたの事情を察したらしい。
  「桑田です。晴美がお世話になっています」
  男が一礼したとき、歩み寄ってきた2つの影はさらに近づき街灯の中ではっきりと顔立ちが見えた。
  「あいつが……厭な女よ」
  背後に晴美の不確かな声を聞くのと、男の次の声を聞くのとがほとんど同時だった。
  「私の母です」
どんでん返しの典型である。恭子の疑いは外れていた。