じじぃの「人の生きざま_290_伊集院・静」

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姜尚中×伊集院静 今を生きる若者について 動画 YouTube
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夏目雅子 婚約会見 動画 YouTube
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夏目雅子 画像
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伊集院静 ウィキペディアWikipedia)より
伊集院静(1950年2月9日 - )は、日本の作家、作詞家。
伊集院 静は作家としてのペンネームである。作詞家としての筆名は伊達歩
本名(戸籍名・日本名)は、西山忠来。日本に帰化前の氏名(旧名・出生名・韓国名)は、チョ・チュンレ。男性。
【来歴】
山口県立防府高等学校を経て、立教大学文学部日本文学科を卒業した。当初、立教大学ではなく美術大学に進学するつもりでいたが、当時義兄が巨人の野球選手だった影響で高校の夏休みを利用して東京に行った折、長嶋茂雄本人から「野球をするのなら立教に行きなさい」と言われた。その長嶋の一言で立教大学に進学を決めた。
1981年、『小説現代』に『皐月』を発表し作家デビュー。代表作に『機関車先生山口県防府市を舞台とした自伝性の強い『海峡』三部作などがある。1984年8月27日にかつてカネボウ化粧品の「クッキーフェイス」のCMキャンペーンガールで一緒に仕事をした女優の夏目雅子と7年の交際の後再婚したが、夏目は1985年9月11日に27歳の若さで急性骨髄性白血病で死去した。
伊達歩(だて あゆみ)の名で作詞家としても活躍。近藤真彦に提供した『愚か者』で、1987年に第29回日本レコード大賞を受賞した。その他『ギンギラギンにさりげなく』などのヒット曲がある。1992年7月15日、『受け月』で直木賞を受賞。同年8月7日に現在の夫人女優篠ひろ子と再婚。
1993年、『乳房』が映画化、1997年、『機関車先生』がアニメ映画化し声優として参加している。更に2004年には実写映画化された。その他、テレビ化されたのは「夕空晴れて」「海峡」「あづま橋(橋の雨)」など。 また、2005年「ツキコの月」が帝国劇場、中日劇場にて舞台化された。

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『 逃げない―13人のプロの生き方』 小松成美/著 産経新聞出版 2012年発行
伊集院静(いじゅういんしずか) (一部抜粋しています)
「2010年に60歳になったとき、決めたことがあった。それは、毎回、みずみずしい文章を書くということ。そして、失敗を恐れずにやるということ」
現在、新聞や月刊誌に小説やエッセーを多数連載し、週刊誌に人生相談を綴る伊集院静
自らの取り決めに従い、自由に、そして猛然と書く作家は、これまでにない作品を生み出そうと、最も「手ごわい」と感じるジャンルへも足を踏み入れた。推理小説である。
「あてもない旅を続けていた頃、ミステリーを読むことが1つの楽しみでした。好きだった松本清張さんの作品にはいつも圧倒されていましたよ。とにかく、その文章力が群を抜いていましたからね」
本気で仕事を始めようと思った還暦の年、これからはジャンルを限定せず、どんな新しい分野の小説でも読んでいこうと考えていた。
「年を重ねると実態もない権力をかざしたくなるし、失敗しては恥をかくことが恐ろしくなるんです。そんな状況から脱出するには、推理小説は好都合だった。周囲から批判や文句や集まるはずだからね。でも、だからやったんだね」
自分の手がけた推理小説は、どんな色や匂いを持つのか。高いハードルを前に、そんな好奇心が新たな領域へと分け入る力を与えていた。
「最初はね、不安もあった。例えるなら、力士がフィギュアスケートの試合に出るようなものでしたよ。内心、そんなもん本当にできるんかいな、と思いながらも、やると宣言したからには後へは引けない。そんなもん書けるにきまっているだろ、と言い張っていました」
2011年12月に出版された『星月夜』(文藝春秋)は、息が詰まるような都会の雑踏と厳しくも美しい自然の中に生きる人たちの物語だ。
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山口県の中央部に位置し、周防灘に面した美しい海岸線を持つ防府市、夏は海からの穏やかな風が吹き、冬は厳しい季節風中国山地で遮られる瀬戸内海特有の気候に恵まれたこの地で、伊集院は生まれた。
「仙台に移り住み、東京で仕事に追われる今でも、時折帰っていますよ。年老いた母に会って話すためですが、あの風景に呼ばれるからでもあります」
幼少から少年時代に描いた自伝的小説『海峡』にあるように、父親は朝鮮半島から日本へ渡り、たたった1人で事業を興した。海運業や土木事業で成功した父は、飲食店や旅館、ダンスホールを構え、土地の実力者となって覇権を握った。
伊集院の育った小さな港町には、陽差しにあふれた海の光景を背景に、その当時、降り注ぐ光とは不釣り合いな人びとも暮らしていた。
「私たち家族は、港湾で働く男たちや遊郭の女たち、そうした人たちと境界線を引くことなく過ごしていたんですよ」
屈強な父のもとには、日本、韓国、台湾などから大勢の働き手が集まった。中には、素姓の知れない流れ者や広島で被爆し後遺症を抱えた人もいた。だが、そうした人たちを父は無条件に受け入れた。
「周囲にはいつも汗まみれで厳(いか)つい男たちがいました。子供の自分は、そうした人たちが懸命に働く姿が好きでしたね」
艀(はしけ)が行き来する水路端にあった家には、50人もの人がひしめき合って暮らしていた。勇ましく、ときに激しい気質の父は大所帯をまとめ上げ、父とは別世界にいるような優雅な母は、まるで家族に対するように、働く1人1人に目をかけた。
「そんな環境で育ったことが、今、こうして小説を書いていることの理由の1つかもしれません」
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伊集院が夏目雅子と結婚したのは、1984年の8月だった。
「私たちは、鎌倉に家を借りて生活を始めました。でも、その家には1ヵ月もいられませんでした。彼女の病気が発症したからでした」
テレビドラマや映画で主演を務め、女優としての地位を築いていた彼女は、舞台で主役を演じることになっていた。その稽古中、急性骨髄性白血病を宣告され、入院することになった。病は重篤で、治療は長引いた。
「最後の化学療法のときには、医師から、『今回の治療は強いから、今のうちに好きなものを食べさせてあげてください』と言われてね。焼き鳥を買って、彼女が『ワイン飲みたい』っていうから、ワインを買って、そのとき、手元に金がなくてね、そんなときに、安いワインしか買ってやれなかった」
そして、209日間に及ぶ闘病生活の末、彼女は1985年9月の雨の朝、帰らぬ人となった。27歳だった。
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伴侶の死は、小説創作の情熱も、人と寄り添って生きることへの愛着も奪ってしまった。故郷の防府に帰り、母校の野球部のコーチを務めたりしたが、途轍(とてつ)もない悲しみは、彼を放埒(ほうらつ)な生活へと誘(おび)き入れた。
ギャンブルをしての荒れた生活とアルコール依存で心臓発作を起こし、幻覚を見るまでになっていた伊集院は、彼を思う人たちに救われることになる。
「1986年ごろ、親しかった漫画家の黒鉄ヒロシさんから『ぜひ一度、逢せたき人がいます』という手紙をもらいました。上京しお会いしたのが、作家の色川武大先生でした」
伊集院は、色川が阿佐田哲也の名前で書いた小説『麻雀放浪記』のさわりしか読んだことがなかった。
「先生の偉大さを知らない私が、先生から誘われて『旅打ち』に出ることになりました」
旅打ち」とは、旅をしながらギャンブルに興じることである。2人は地方の安宿を転々としながら、競輪場を回った。だが色川は、発作が起きるとどこでも寝てしまう「ナルコレプシー」という病気を抱えていた。
「私はただ黙って先生について行き、競輪場で車券を買って、街で一緒に食事をし、宿で酒を飲みました。目縫ってしまう先生の傍らにいて、体に異変がないか、気を配りました。そして、先生は先生で、私が幻聴や幻覚に苦しむことを知っていました。先生もそれに苦しんでいたからです」
その間も周囲は、伊集院に小説を書くよう持ちかけましたが、頑として首を縦に振らなかった。
「自分には小説を書く任がないと思っていた。作詞家や演出家だった自分は、生粋の小説家にはなれないと思ったし、なりたくもなかった」
ある日、伊集院は『百』という小説を読んだ。100歳を前にして老耄(ろうもう)の始まった元軍人の「父親」と、無頼の日々を過ごしてきた「私」との異様な親子関係を描いた作品は、伊集院に衝撃を与えた。
「この人は本当に凄い人だ、と思いました。そして、旅打ちの最中に色川先生が書いた『狂人日記』を後日読み、小説は凄いなと、圧倒されました」
1989年の春、色川は逝った。60歳だった。
弟、妻に続く3度目の突然の別れ。色川と過ごした短い年月を心に刻んだ伊集院は、やがて、再び小説と向き合うようになる。
「『あなたの小説を読みたい』と言い続けてくれた若い編集者がいました。週刊誌連載のエッセー『競輪躁鬱旅行』を読んで、『この作品は、もはや小説に向かっている』と感想を告げてくれた編集者もいました。そうした人の言葉に、待ってくれる人がいることの幸福を感じたのです。そして、人や人の思いを描くのが小説ならば、私はいずれ小説を書きたい、と」
今、伊集院は作品を書き上げることに馳突(ちとつ)する。
40代で得た穏やかな家庭は、その彼の唯一の安息の場だ。
「悲しみは、これまでに流れた多くの時間が解決してくれました。人はそれぞれ多くの事情を抱え、それでも、平然と生きるのだと思います」

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