じじぃの「人の死にざま_1273_野上・弥生」

母校の大先輩は野上弥生子 臼杵市臼杵小学校 子ども先哲・歴史講座 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yTeIhg_XRGQ
日本で最も聡明な女性・野上弥生子(99歳)の晩年の生き方 前坂俊之のブログ
弥生子は英文学者で能の研究者であった夫・野上豊一郎は夏目漱石の門下生で、その影響で小説を書き始めたのは明治40年
夫を通じて漱石に私淑、その文才を認められて作家として世に出た。以来、天寿を全うするまでのおよそ80年間、生涯現役で作家活動を続けたことは驚異に値する。彼女の並々ならぬ努力と強い意志があったからで、それがまた、長寿につながったのであろう。
http://ameblo.jp/toshiyukimaesaka/entry-10667060498.html
野上弥生子 ウィキペディアWikipedia)より
野上弥生子は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ。
【人物】
昭和初年のプロレタリア文学が流行した時代には、社会進歩のための活動の中にあった非人間的な行動を追及した『真知子』を発表する一方で、思想と行動について悩む青年に焦点をあてた『若い息子』『哀しき少年』などを書き、また日本が戦争へ傾斜していく時期には、時流を批判した『黒い行列』(戦後、大幅に加筆して長編『迷路』に発展させる)と、良識ある知識階級の立場からの批判的リアリズムの文学を多く生み出した。
中条(宮本)百合子や湯浅芳子とも交友を持ち、『真知子』は、百合子の『伸子』を意識して書いた作品であるといわれ、1920年代の女性の生き方を描いた作品として日本文学に大きな位置を占めている。第二次世界大戦が勃発した時期にはちょうど夫とともにヨーロッパに滞在しており、その前後の紀行文『欧米の旅』(現在は岩波文庫全3巻)は、この時期の激動の証言としての価値も高い。

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『知識人99人の死に方』 荒俣宏/監修 角川文庫 2000年発行
野上弥生子(のがみやえこ) (1885 - 1985) 99歳で死亡。(一部抜粋しています)
大分県臼杵の酒造業者の家に生まれる。10歳のころから国学者について日本の古典文学を学び、英文学の素養も身につけた。16歳で上京、明治女学校卒業後、同郷の英文学者で能楽研究家野上豊一郎と結婚、夏目漱石門下生だった夫の影響で小説を書き始める。漱石の推薦で処女作「緑」が『ホトトギス』に連載されて文壇にデビューしてから、一時平塚らいてうの『青鞜(せいとう)』にも参加。3人の子育てをしながら、『海神丸』『大石良雄』『真知子』などを次々に発表した。昭和11年から20年を費やした大作『迷路』、権威者と芸術家との葛藤を描いた『秀吉と利休』などを書き、近代女流文学の基礎を築いた。
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86歳から自伝的長編『森』を死の直前まで書き継ぐ一方、平塚らいてう宮本百合子らとのことを書く計画や、大友宗麟についても書きたいと発言するなど最後まで旺盛な執筆意欲を見せた。孫長谷川三千子にあてた書簡には「ほんとうに世に生きるといふことは、作家のみに可能ではないかと、このごろは考えてゐるくらゐです。それだけにいかに苦しく、険しい、また困難な道かといふことも、いよいよ年をとるほど思い知らされてゐる」と記してもいた。死の前年、白寿のパーティ直前に弥生子を訪れた大江健三郎は、「山(北軽井沢の別荘)で葬式を出すことになるでしょう」と言われたという。
昭和60年3月29日朝まで『森』の最終回の構想を練っていたが、午前9時トイレに立って寝室に戻ったところで突然倒れた。一時意識が混濁しうわごとを言ったが、午後には途切れ途切れに話せるようになった。30日未明再び意識を失い、血圧が50〜60に降下、長男夫妻に見守られて午前6時35分静かに息をひきとった。100歳まであと37日だった。

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