じじぃの「人の死にざま_1009_高群・逸枝」

高群逸枝 - あのひと検索 SPYSEE
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高群逸枝(熊本歴史・人物)
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/shoukai/rekisi/itue.html
女たちの日月書評などの紹介
澤田美喜武田百合子森茉莉美空ひばり高群逸枝向田邦子雫石とみ相馬黒光、江口康子、長嶺ヤス子、北村サヨ、市川房枝
彼女たちに共通するのは、無私の精神を持ち続ける人といえるだろう。
http://kinohana.la.coocan.jp/onnasyohyo.html
高群逸枝 ウィキペディアWikipedia)より
高群逸枝は、日本の詩人・民俗学者・日本の「女性史学」の創設者である。
熊本県下益城郡豊川村南豊崎(現宇城市)に、小学校校長であった高群勝太郎(嶇泉)の長女として誕生。若い頃より詩人として活躍し、九州新聞などで短歌や詩を発表する。のち、東京にその活躍場所を求めて移転する。アナーキズムと出会って女性史研究を志し、平塚らいてうと共に女性運動を始める傍ら、女性史研究を進め、『母系制の研究』や『招婿婚の研究』などの業績を残し、女性史研究分野の発展に寄与した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
高群逸枝(たかむれいつえ) (1894-1964) 70歳で死亡。 (一部抜粋しています)
日本は上代、母系制社会であったとして、彼女以前の男性史学の通念をひっくり返した独創的な研究にとりかかったのは、昭和6年彼女が37歳のときであった。
以後、逸枝は不世出の天才とし、かつまた聖女と信じる3歳年下の夫、橋本憲三は、その生活のすべてを――ふつうには女性の役割とされている炊事洗濯に至るまで受けもち、そのおかげで逸枝は研究に全力をそそぐことが出来た。
逸枝が14年かかって大著『招婿婚の研究』を完成したのは、昭和28年であった。しかし彼女は日記にかく。
朝日に『招婿婚の研究』の批評のる。ごく小さく片づけている。前人未到の大著とか、努力と精進は驚嘆に値するとかの文字はあるが、書評らんの最下段に僅か十数行」
彼女が生涯をあげてとりくんだのは、経済的にひきあわぬことはいうまでもなく、在野の女性史家として学界から冷ややかに黙殺されるおそれの充分ある仕事であった。
その後彼女は自伝『火の国の女の日記』を書くことにかかったが、その半ば、昭和39年にはいったころから全身に甚だしい疲労をおぼえ、視力が衰え、かつ4月から激痛を伴う顔面疱疹(ヘルペス)にかかった。
病状ようやくただごとでないと知って、憲三が彼女を国立東京第二病院に入院させたのは5月12日であった。後援者の市川房枝らが、医者から聞いたガンの診断を憲三に告げると、思いもかけなかった憲三は椅子から崩れおちて失神した。
逸枝はガン性腹膜炎を起こし、6月7日、大吐血とともに息をひきとった。
 わが道はつねに吹雪(ふぶ)けりさりながら        逸枝
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逸枝の遺言により、彼女と憲三が昭和6年以来30余年住んでいた世田谷の、30坪ばかりのペンキのはげた洋館、いわゆる「森の家」は、夫憲三の手により、昭和41年に解体され、家財道具はもとより、おびたたしい研究資料も、彼女が愛用していたマンドリンまで一切焼却された。

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