じじぃの「人の死にざま_477_東海林・太郎」

東海林太郎 - あのひと検索 SPYSEE
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赤城の子守唄(東海林太郎 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=mf4eKn8vMc8
東海林太郎 − 名月赤城山  動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=KjXbMpibdlo&feature=related
東海林太郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
東海林太郎は歌手。ロイド眼鏡・燕尾服を着用し直立不動の姿勢で歌う、戦前を代表する歌手。
【経歴】
秋田県秋田市台所町二番地に生まれた。
秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業。東京に上京し国民英学校に学び、早稲田大学商学部予科に入学する。卒業間際に庄司久子と結婚した。佐野学に研究科でマルクス経済学を学ぶ。
研究科修了後、1923年9月南満州鉄道株式会社に入社、庶務部調査課に勤務。「満州に於ける産業組合」を脱稿するが、あまりにも左翼的ということにより、1927年鉄嶺の図書館に左遷される。音楽の夢が捨てきれず、満鉄には7年間勤務したが、その後、退社して帰国。弟三郎と早稲田鶴巻町で中華料理店を経営。
【流行歌手に】
日本ポリドール蓄音機株式会社(現在のポリドール・レコード)で吹込んだ「赤城の子守歌」が1934年2月新譜で発売され空前のヒットとなった。その年には「国境の町」も大ヒットし歌手としての地位を確立した。後ポリドール専属となり澄んだバリトンを活かして「むらさき小唄」「名月赤城山」「麦と兵隊」「旅笠道中」「すみだ川」「湖底の故郷」などのヒット歌謡で東海林太郎時代を到来させた。また、「谷間のともしび」など外国民謡においても豊かな歌唱力を示した。
NHK紅白歌合戦には、第1回・第6回・第7回・第16回の計4回出場している。
直立不動のスタイルは剣豪宮本武蔵を彷彿させるものであり、「一唱民楽」の言葉のごとく、「歌は民のため」という信念を持ち、あの常に真剣勝負の姿の歌唱魂は激動の昭和を生き抜いた時代精神を表している。生前「マイク一本四方が私の道場です。大劇場であろうとキャバレーの舞台であろうと変わりありません。」と述べていた。また、彼の人生は癌(直腸癌、直腸を全摘後は人工肛門をつけ、腹に晒しをきつく巻きつけながら歌った)との闘いのそれでもあり、病魔を克服しての音楽人生だった。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
東海林太郎(しょうじたろう) (1898-1972) 74歳で死亡 (一部抜粋しています)
日中事変前「赤城の子守唄」、事変中「麦と兵隊」などで一世を風靡(ふうび)した流行歌手東海林太郎も、太平洋戦争後はドサまわりのうちに没落したかに見えたが、昭和40年、東京12チャンネルの「懐かしの歌声」で奇蹟的に一躍復活した。そのとき彼は67歳であった。
白いタキシードに黒いネクタイの正装、そして直立不動の姿勢をとり、半白髪をふりみだして堂々と歌う姿が、人々に一種の感動を与えたのである。
が、昭和45年、テレビスタジオの階段を踏みはずして転んでから右足を痛め、杖をつかなければ歩けないようになった。彼はそれまでに結腸ガンの手術を受け、人工肛門をつけていた。
それでも彼は歌いつづけたが、巣台にギャラのないチャリティ・ショーなどが多くなった。
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昭和45年9月26日の午後、立川に住むある女性の家で、マネージャーと九州沖縄公園の打ち合せをしている途中、「ちょっと昼寝をする」といって隣の部屋でごろりと寝たが、それっきり動けなくなった。脳溢血を起こしたのであった。
彼はそのまま意識を回復せず、立川中央病院に運ばれたが、10月4日午前8時40分に死亡した。

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