じじぃの「人の死にざま_417_平塚・ら」

平塚らいてう - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%B9%B3%E5%A1%9A%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%86/2227/
青鞜 画像
http://bbs.jinruisi.net/blog/hiratsuka02.jpg
平塚らいてうの会トップページ
http://homepage3.nifty.com/raichou/
平塚らいてう フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
平塚らいてうは、日本の思想家・評論家・作家・フェミニスト戦前と戦後に亘る女性解放運動・婦人運動の指導者で、後年には平和運動にも関わった。表記は一定せず、漢字で雷鳥と書く場合や、塩原事件で有名になったために、本名の平塚明や平塚明子で評論の俎上に上がることもある。
【生涯】
1886年東京府麹町区三番町に3人姉妹の末娘として生まれる。本名は平塚明(ひらつかはる)。
1908年(明治41年)2月1日に初めてのデートをするが、同年3月21日に塩原事件と呼ばれる心中未遂事件を起こす。新聞はある事ない事を面白く書き立て、明の顔写真まで掲載した。明は一夜にしてスキャンダラスな存在となり、日本女子大学校に至っては桜楓会の名簿から明の名を抹消している。その後、1992年(平成4年)に復活する(『日本女子大学学園事典』)。
明は、塩原事件を機に、性差別や男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放に興味を持つようになっていた。この頃、生田長江の強いすすめで、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』の製作に入った。資金は母からの援助で「いつか来るであろう娘明の結婚資金」を切り崩したもの。その資金を元に青鞜社を立ち上げ、企画は明の同窓生や同年代の女性に拠り、明は主にプロデュースに回った。
表紙は長沼智恵が描き、与謝野晶子が「山の動く日来る」の一節で有名な「そぞろごと」という詩を寄せた。明は『元始女性は太陽であつた - 青鞜発刊に際して』という創刊の辞を書くことになり、その原稿を書き上げた際に、初めて「らいてう」という筆名を用いた。
青鞜社は『青鞜』の他にも1912年(大正元年)末に岡本かの子の詩集『かろきねたみ』を皮切りに、翌1913年3月に『青鞜小説集』などを出版している。同年5月にらいてうの処女評論集『円窓より』も出ているが、出版直後に「家族制度を破壊し、風俗を壊乱するもの」として発禁に処せられている。
1960年(昭和35年)、連名で「完全軍縮支持、安保条約廃棄を訴える声明」発表。1962年(昭和37年)には、野上弥生子いわさきちひろ岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成した。1970年(昭和45年)6月にも市川房枝らと共に安保廃棄のアピールを発表する。またベトナム戦争が勃発すると反戦運動を展開。1966年(昭和41年)「ベトナム話し合いの会」を結成、1970年(昭和45年)7月には「ベトナム母と子保健センター」を設立する。「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言する孤高の行動家として、終生婦人運動及び反戦平和運動に献身した。
自伝の作に取り掛かるが、1970年(昭和45年)に胆嚢・胆道癌を患い、東京都千駄ヶ谷代々木病院に入院。入院後も口述筆記で執筆を続けていたが、1971年に85歳で死去。

                                    • -

『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
5月24日−平塚らいてう (婦人運動家)
原始、女性は太陽であった−−との言葉で知られる平塚らいてうは日本の女性史を語るに不可欠な女だろう。
江戸時代は言うに及ばず明治、大正の頃の女性なんて本当に人間扱いされてなかったような面が多分にあった。
だからこそ平塚が婦人解放をめざし、奥むめお市川房枝らと共に新婦人協会を設立し、運動を進めてきたことが評価されるのだ。
1946年。ついに婦人参政権を女性は獲得した。それ以後、つまりあの名コピー「戦後強くなったのは靴下と女性」とあるように、今日の女性はいよいよ男性と肩を並べてきた。
女の時代といわれる平成の世。そして21世紀になろうとしている今、日本の女性たちは平塚らいてうに感謝の念を忘れず、この日、献杯をして欲しいと思う。

                                    • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
平塚らいてう (1886-1971) 85歳で死亡。 (一部抜粋しています)
若いころ「煤煙」事件、「若い燕」事件などで世を騒がせたこともあったが、「青鞜(せいとう)」を創刊し、生涯を女性の権利のための戦いに捧げた平塚らいてうは、昭和45年秋ごろから身体不調を訴え、代々木病院に入院した。病名は胆嚢(たんのう)ガンであった、
彼女は入院後も、自伝『元始、女性は太陽であった』を口述筆記していたが、口述するときは必ずベッドの上に正座した。
医師の佐藤猛夫は語る。
「高齢なので手術には耐えられず、抗ガン剤と対症療法を併用して治療につとめました。平塚さんは顔に表情を出さない方でしたら、見た目にはとても重病人とは思われず、泰然自若としておられました。枕元には草花の植木鉢をならべてたのしんでおられました」
翌46年春のころから、さすがに正座は無理になり、横たわったまま口述をつづけたが、4月にはそれも不可能になった。
5月24日、息をひきとった。自伝は未完に終わった。

                                    • -

平塚らいてう Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=z43ATODhK4u8vgOHg7W8CA&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCsQsAQwAA&q=%E5%B9%B3%E5%A1%9A%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%86%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1