じじぃの「人の死にざま_751_平林・た」

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平林たい子記念館
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平林たい子 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
平林たい子は、日本の小説家。本名、平林タイ。
【生涯】
長野県諏訪市出身。
高女時代に社会主義に関心を持ち始め、同校卒業後に上京しアナーキスト山本虎三と同棲。
1927年(昭和2年)小堀甚二と結婚(1955年(昭和30年)、小堀に隠し子がいたことが判明したため離婚している)。1946年(昭和21年)『かういふ女』で第1回女流文学者賞を受賞した。
戦後は、転向文学の代表的作家とも言われ、政治的にも民社党を結党当初から支持するなど反共・右派色を強めていった。更に保守系の言論人団体である日本文化フォーラム・言論人懇話会にも参加している。
平林の作品は、同時代の文学者や平林自身をモデルに創作された小説のほか、社会時評、随筆など多岐にわたる。戦時中、博徒の石黒政一に助けられたことでヤクザの世界に興味を持ち、『黒札』、『地底の歌』、『殴られるあいつ』などの任侠小説も書いた。1967年(昭和42年)『秘密』で第7回女流文学賞受賞。
没後、芸術院恩賜賞を贈られ、遺言により「平林たい子文学賞」が創設された。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
平林たい子 (1905-1972) 67歳で死亡 (一部抜粋しています)
平林たい子は若いときから多病で、しかもいわゆる人民戦線事件などで投獄されたりして、いくども絶望的な闘病生活に追いこまれたが、その間、食べたいものがあると、春先に梨を要求するなどして、貧しい夫の小堀甚二を悩ませた。たまりかねて小堀が悲鳴をあげると、病床のたい子は切口上でいった。
「人は病気になったら、治る権利があるわ。だから欲しいものは何でも要求するわ。でも、それを受けいれるかどうかは、あなたの自由よ」
これほど生命力の強いたい子は、ついに病気を克服し、戦後超人的な執筆活動を開始した。
外見では肥満体の彼女は、同時に闘士のかたまりのようで、ほかの文士を「とかくメダカは群れたがる」と揶揄(やゆ)して物儀をかもした。
が、彼女と平生愛情をともにした夫で、そのために別れるとき、彼女らしいどきつい仕打ちで苦しめてやった小堀甚二が、昭和34年不遇のうちに死亡したころから、彼女の多病がまたぶり返しはじめた。
35年には高血圧のため原稿の口述筆記さえ出来なくなり、36年春には鎖骨カリエスになって入院した。その年の秋には心臓喘息で入院し、37年には糖尿病の診断を受けた。39年以降2度乳がんにかかり両乳房を切除し、43年には高血圧で眼底出血し、以来悪化しあと1年もすれば失明状態になると宣告された。さらに肝硬変もすすんだ。
この状態でしかしたい子は、何度か外国旅行し、一見精力的な執筆をつづけた。若いころのたい子は、病人としては医者のいうことをよく守る模範生であったが、晩年のたい子は、残る余生を『林芙美子』『宮本百合子』などの執筆に燃やしつくすことを怖れなかったように見える。
昭和47年1月、彼女はふとした風邪から肺炎をひき起こし、2月5日昏睡状態におちいって病院にかつぎこまれた。
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途中意識がはっきりしたとき、医者に「私にはやるべき仕事がまだ残っているんです、まだ死ねません。先生、助けて下さい」と訴えたが、2月17日午前5時40分に死亡した。

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