じじぃの「人の死にざま_1378_野間・宏」

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野間宏

野間宏 ウィキペディアWikipedia)より
野間 宏(のま ひろし、1915年(大正4年)2月23日 - 1991年(平成3年)1月2日)は日本の小説家、評論家、詩人。長編小説を多く書き、社会全体の構造をとらえる全体小説を志向した。また、最晩年まで社会的な発言を多く行ったことでも知られている。

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『知識人99人の死に方』 荒俣宏/監修 角川文庫 2000年発行
野間宏 (1915 - 1991) 75歳 食道がんで死亡。(一部抜粋しています)
神戸市生まれ、京大仏文科卒。父親は在家真宗一派の教祖であり、野間も幼い頃から宗教的な影響を強く受けたと言われる。戦時中は、中国、フィリピンなどに従軍したが、のちに治安維持法に問われ陸軍刑務所へ。昭和21年、戦時下を生きる左翼青年の葛藤を描いた『暗い絵』で文壇デビュー。その後も、社会と人間の関係を深く洞察する作品を書き続けた。第一次戦後派として、大岡昇平武田泰淳らとともに戦後文学を代表する作家である。
「『戦後文学』とは、結局戦争をどうとらえるか、敵も味方もふくめ、数多い死者がいる、常に生と死が自分の横にある、そこで書いているということだと思う。いまの文学はむしろ生死から遠ざかっている。だが、それを回復しなければ、本来の文学にならないんじゃないか」[朝日新聞S64・1・4]とは、その文学業績によって朝日賞を受賞した際の言葉である。
生死を見つめる視線は、人権問題、環境問題へと広がりを見せ、雑誌『世界』に連載された「狭山裁判」はじつに181回、15年にわたる未完の大著となった。
野間自身、連載が終わるのは石川一雄被告が無罪になるときか、自分が死ぬときだと話していたという。
平成2年に入って体調を崩しがちになり、入退院を繰り返していたが、年末、東京慈恵医大病院に再入院。年明けの正月2日に不帰の客となる。氏の直前まで口述による執筆を続け、ワープロには「狭山裁判」第182回の草稿が残されていた。