じじぃの「人の死にざま_870_桑原・武夫」

桑原武夫 - あのひと検索 SPYSEE
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茂木健一郎 桑原武夫学芸賞受賞スピーチ[高画質] 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=se8RyuAvzD4
桑原武夫の「第二芸術論」の衝撃
ランス文学者の桑原武夫の「第二芸術論」の衝撃は、発表から50年以上も経た今日なおもつづいている。虚子をはじめ俳句界の論客が何ら有効な反論を為し得ずに、「俳三昧。松のことは松に習え」と何のことやら訳の分からない隔靴掻痒の言葉で繕ってきたからではないか。「第二芸術論」に真正面から向き合うことをせず、今日まで来た。
http://www1.odn.ne.jp/~cas67510/haiku/kuwahara.html
ほくしん文芸クラブ
「句一つではその作者の地位を決定することが困難であるなどの理由から桑原武夫は俳句を第二芸術とよぶほかはないと言った」
「指示性の根源である韻律が日本語では音数律にみちびかれることが、なにを意味し、なにをあたえるかの本質的な理解を桑原武夫は見落としていたと吉本隆明は批判しています」
http://www.hokushin-media.com/hbc/minibbs.cgi
桑原武夫 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
桑原武夫は、日本のフランス文学・文化の研究者。文化勲章受章。研究者を組織しての共同研究の先駆的指導者でもあった。
【来歴・人物】
スタンダールやアランの研究により、フランスの文学や評論を広く日本に紹介した。父桑原隲蔵の関係もあり、早くから西田幾多郎内藤湖南ら戦前の京都学派の碩学の謦咳に直接接することが多く、戦後、同年代の吉川幸次郎貝塚茂樹などの戦後の京都学派の中心的存在として、戦後のさまざまな文化的ムーブメントに主導的な役割を担った。
フランス文学にとどまらず、多方面に亘る深い学識と行動力は各方面に及び、俳句を論じた「第二芸術」(『世界』1946年)は論議を呼んだ。 また、学際的な、さまざまの分野の研究者を組織することにより、先駆的な共同研究システムを推進したことでも知られる。『フランス百科全書の研究』『ルソー研究』(1951年、毎日出版文化賞)、『宮本武蔵と日本人』など、日本の人文科学分野の研究において、数々の業績を残した。これらの共同研究を通じて、梅棹忠夫梅原猛、上山春平、鶴見俊輔多田道太郎ら多くの文化人の育ての親となった。しかし、『百科全書』派研究などはフランスの学者からは評価されず、国内でも、広く浅くの桑原をディレッタント(英、伊:dilettante、好事家。学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者)視する学者もあった。有名な「第二芸術論」も、アイヴァー・リチャーズ『実践批評』で用いられた手法をそのまま転用していると外山滋比古に指摘されている。 このことを指していったのではないだろうが、小松左京との対談で「ある人が、あなたのやったことはみな思いつきに過ぎない」と批判したところ桑原は「思いつきかも知れないが、おまえ思いつきいうてみい」と切り返したと回想している。
一方、岩波書店中央公論社等の出版社との連携も強く、戦後の出版ブームでは、『文学入門』、『日本の名著』など、今に残る新書のベストセラーを数多く出版した。生前に朝日新聞社岩波書店からそれぞれ全集が発刊されている。
また、同期である今西錦司らとともに登山家としても知られ、1958年には、京都大学山岳会の隊長として、パキスタンチョゴリザへの登頂を成功に導いた。登山に関する著書も多い。

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『知識人99人の死に方』 荒俣宏/監修 角川文庫 2000年発行
桑原武夫(くわばらたけお) (1904-1988) 83歳で死亡。(一部抜粋しています)
福井県敦賀に生まれる。京大教授だった父の隲蔵(じつぞう)は日本における東洋史の権威であり、桑原がフランス文学を志望した際、父の同僚は猛烈に反対したという。京大人文科学研究所所長時代に「ルソー」「百科全書」「フランス革命」などをテーマに、専門を超えた研究者による共同研究を組織した。梅原猛梅棹忠夫鶴見俊輔今西錦司多田道太郎高橋和巳ら延べ110人が参加し、学際研究の端諸となった。のちに新京都学派と呼ばれるようになったが、桑原はこれら一筋縄ではいかない研究者たちの”猛獣使い”であった。
精神主義を嫌い、徹底した合理主義に裏打ちされながら行動する桑原の姿勢は、死を肯定する風潮が支配していた戦時中に書いた「鳥の死なんとす」にも表れている。
「コッホが死を恐れずに細菌を飲んだおこないには、現代知識人を立たしめるところがあるが、やはり科学、学問は生を思うときのみに栄えるのであると。コッホも自己の学問、ひいては文化に自信をもつゆえにこそ死の瞑想などにとらわれず、大いなる生のために危うきをおかしたのではないだろうか。・・・」
晩年最も力を注いだ国際日本文化研究所センターの開設にこぎつけ、初の国際研究集会に招いたレヴィ=ストロースをもてなそうとした矢先に体調を崩し入院。意識が朦朧(もうろう)としてからも研究についてうわごとを繰り返し、息をひきとった。

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桑原武夫 Google 検索
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