じじぃの「吉本隆明が語る・沈黙から芸術まで・芸術言語論!ETV特集」

訃報:吉本隆明さん87歳=評論家、詩人 2012年3月16日 毎日jp
1960年代の新左翼運動で教祖的存在と目され、独自の思考に根ざした文化・社会批評で戦後思想界を牽引(けんいん)した詩人、評論家の吉本隆明(よしもと・たかあき)さんが16日午前2時13分、肺炎のため東京都文京区の病院で死去した。87歳。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120316k0000e040164000c.html
[120325][NHK-E] ETV特集 吉本隆明 語る〜沈黙から芸術まで〜 動画 Youku
http://v.youku.com/v_show/id_XMzczMTQyMTE2.html
吉本隆明「ほんとうの考え」014 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=bUJQrH9zCNM
プライムニュース 「追悼番組 吉本隆明の現代 日本における意味」 2012年04月13日 BSフジ
【キャスター】島田彩夏、反町理、小林泰一郎 解説委員 【ゲスト】文芸評論家 三浦雅士、評論 芹沢俊介
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d120413_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d120413_1
吉本隆明 画像
http://pds.exblog.jp/pds/1/200901/05/95/c0018195_1017176.jpg
ほぼ日刊イトイ新聞 - 吉本隆明
http://www.1101.com/yoshimototakaaki/
吉本隆明プロジェクト 商品ラインナップ 紀伊國屋書店
http://bookweb.kinokuniya.jp/bookfair/yoshimotoproduct.html
朗読入門講座 森鴎外『半日』その2 ぶらぶら散歩日記
●概要
大学教授高山峻蔵博士は母と妻と幼い娘玉との三人家族。
妻は姑を嫌って一緒の食事をも拒んでいる。
そんな妻が引き起こす半日の出来事を描いた作品。
●今回部分のあらすじ
博士が朝の身支度を終えて茶の間に往く。
そこには母君が待っていて博士と博士の娘の玉ちゃんの給仕をしながら一緒に食べる。
奥さんは皆の食事が済んでから別間で食べる。
奥さんは母君とは少しも同席しないのである。
夫婦でいるところへ母君がくると、つと立って出て行ってしまう。
夜帰宅した博士に用事があって、母君が話にくると奥さんはあからさまに嫌がる。
そのため食事のときに話すよりほか、母君は博士と話すことができなくなっている。
奥さんの望みは夫婦と娘とで食事をして、母君を茶の間に出さないようにしたいのであるが、これは博士が承知しない。
どうしても母君と食事をする。玉ちゃんは子供なので食事を待っていないから、お父さんとおばあさんと一緒に食べる。
博士は、今朝は御所へ行かなければならず急いで食事を済ませたたところへ玉ちゃんがきてがっかりしていると、奥さんがこっちへお膳を持っておいでという。
博士が別間で服を着替えているところへ、身支度のできた奥さんがやってきて、苦しげにため息を吐いた後、博士にこう言った。
「私は玉ちゃんを連れてどこか往ってよ。あんな嫌な声のするところにはいられないから。」
以前にもこう言って一人でふいと出てしまったことがあり、博士は懲りている。
博士は玉ちゃんを置いて、実家の母親の往っている逗子へなら往ってもいいというと。
玉ちゃんを置いては往かれいという。
また始まったなと、博士は出発時刻の迫っている御所行きをやめることにし、使いを出す。
http://ameblo.jp/csy-sky/entry-11170696832.html
文学の散歩道: 「三四郎」に見られる漱石の世界
三四郎を通して感じた漱石の世界について述べたいと思います。漱石は、三四郎の中で「実存出会い」を描きたかったと思います。それは男と女の出会いとして描かれます。男は三四郎です。女は初めに宿を共にした女、轢死した女。この女はオフェーリアの悲劇を想起させます。第3には美禰子です。初めの女は三四郎に対して面と向かって「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と語り、轢死した女は禁断の恋を連想させます。どちらもイプセン的女性で時代に先んじており自己を持ち、男に対して挑戦的です。
美禰子もまた、先進的女性であって快活であり、躊躇がなく、自我が明確です。三四郎の目から、美禰子を描いています。絵のモデルとなって森の女が描かれていくとき、美禰子に疲れがありました。それは彼女の迷いでした。また三四郎に対しての意識でした。それを知ったときの三四郎のうろたえが興味深く感じます。フラッシュとでも言うべき体験です。フラッシュとは実存的出会いとでも言い換えることが出来るでしょう。漱石はマドンナ達を主人公のフラッシュでもって、実存的に描きます。これは明暗の秀子の場合でも、「それから」のリリーオブザバレー(すずらん)とユリを生けた花器の水を飲む三千代の場合も同じです。
このことは弘田先生の夢、若い時の体験でも明かです。明治22年森有礼の葬送の際に見かけた13才のほくろのある少女のことです。それが彼の強烈なフラッシュとなっており、その内面の体験を大切に秘めながら独身を通しているです。
http://haikuhuk.blogspot.jp/2009/04/blog-post_17.html
ETV特集 1月4日(日) NHK
戦後思想界の巨人と呼ばれ、日本の言論界を長年リードしてきた吉本隆明(よしもと・たかあき)さん。84歳になった今も、自らの「老い」と向き合いながら、思索を続けている。
吉本さんは、目が不自由になり読み書きがあまりできなくなった。足腰も弱り、糖尿病を抱えている。しかし、2008年夏、「これまでの仕事をひとつにつなぐ話をしてみたい」と親交のあるコピーライター糸井重里氏に協力を依頼し講演会を開いた。
「僕の本なんか読んでいない人に、どうやったら分かってもらえるかが勝負です。」
車椅子に乗って登場した吉本さんは、2千人を超える聴衆を前に、3時間にわたり休むことなく語り続けた。
詩人にして文芸評論家、そして思想家。文学や芸術だけでなく、政治・経済、国家、宗教、家族や大衆文化まで、人間社会のあらゆる事象を縦横無尽に論じてきた吉本さん。彼は、今、私たちに何を語りかけるのか。
番組は、吉本隆明が自らの思想の核心「芸術言語論」を語った3時間の講演を記録、戦後60年以上かけて紡いできたその思想の到達点を描く。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2009/0104.html
ETV特集 「吉本隆明 語る〜沈黙から芸術まで〜」 2012年3月25日 NHK Eテレ
詩人・評論家の吉本隆明さんが3月16日に87歳で亡くなった。戦後思想界の巨人と呼ばれ、日本の言論界をリードしてきた吉本さん。文学や芸術だけでなく、政治、経済、国家、宗教、家族や大衆文化まで、社会のあらゆる事象を縦横無尽に論じた。吉本さんが残した半世紀の思索を振り返る。
https://www.nhk-ep.com/shop/commodity_param/ctc/+/shc/0/cmc/13255AA/detail.html?cid=fcpcrank014
どうでもいい、じじいの日記。
3/25、再放送であったが NHK EテレETV特集 吉本隆明 語る〜沈黙から芸術まで〜」を観た。
この番組は、2008年7月に昭和女子大学人見記念講堂で開催された 吉本隆明芸術言語論 −沈黙から芸術まで−」の講演会を元に編集されたものである。
大体、こんなことを言っていた。 (手抜きしている)
車椅子に乗った吉本隆明さんがコピーライター 糸井重里さんに連れられて壇上に上がった。
終戦直前まで軍国少年だった。日本の敗戦は悔しくて泣いたと語っていた。
世界を知ろうと、アダムスミスからマルクスまで西洋の哲学書や経済学の本を夢中になって読んだ。
アダムスミスについてはこんなことを言っていた。
「遠くにリンゴの木がある。人がその木まで行って木に登り、リンゴを取って元の位置に戻ってきたときまで、費やされたその人の労力がそのリンゴ1個の価値である」
マルクスについてはこんなことを言っていた。
「芸術の価値も労働の価値によるんじゃないか、と思ったりした。芸術の価値も労働者がそれに費やした労働時間が多ければ多いほど高くなる、と」
森鴎外の『半日』にこんなことが書かれていると話す。
「妻は姑を嫌って一緒の食事をも拒んでいる。妻が言う。『私はあの人のお世話をするために、結婚したわけではありません』、と。また始まったなと、博士は出発時刻の迫っている御所行きをやめることにした」
夏目漱石の『三四郎』にこんなことが書かれていると話す。
「弘田先生は夢を見た。その夢のなかに、20年前の森有礼の葬送の際に見かけた女性が出てきた。話もしたこともない、ほんのちょっとその場所にいた女性なのだ」
フランス文学者 桑原武夫はこんなことを言っていたと話す。
「有名な松尾芭蕉の俳句と他の人が作った俳句をずらっと並べ、作者名を取ると区別がつかないことから俳句は第二芸術だとした」
これに対して、小林秀雄は反論したと話す。
芭蕉は短くすることによって、芸術性が増した。西洋小説と比べて劣らない」
この問題を日本で最も意識的に考えることができたのは横光利一であると話す。
横光利一の作品やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』などは面白い。横光利一は純文学でありながら、物語として大衆文学=通俗小説を目指した」
芸術に価値はあるのか。
太宰治は芸術なんて考えていないと言った」
言語に関してこんなことを言っていた。
芸術言語論として言語を考えるとき、2つに分けると考えやすい。1つは幹や根に近い『沈黙』であり、自分に話しかける言語である。これを『自己表出』と呼ぶ。もう1つは、他人とのコミュニケーションに関わる言語である。コミュニケーションは枝葉の部分の問題としてできている。これを『指示表出』と呼ぶ」
最後にこんなことを言っていた。
古代ギリシャの作品や万葉集はなぜ良いのかということをどのように解明するのか。短い言葉には人の思いが込められているのであり、芸術は1000年、2000年経っても価値が減るものではない。マルクスの経済価値と芸術とは無関係である。何気ない日常のやりとりにこそ芸術があるんじゃないか」
講演会終了後、糸井さんが吉本さんの自宅に行ってこんなことを言っていた。
芸術言語論で言うと、芸術は無価値なんだ、ということについての価値を語る。人が今価値だと思っている価値というのはデタラメなもので、芸術というのは何の役には立たないけれど、こんなにほしがったり、人に喜ばれたり、生きさせてくれる何かがある。(吉本さんの話を)聞いていたら芸術人間論とも読めるなって思ったんですね。つまり、芸術が言語で語られるというのと、もうひとつ人間の話だな、と。言語の幹と根は何かという話は、人間の幹と根は何かという話に通じるな、と」
じじぃの感想
当時84歳の吉本隆明さんが、
「どうしても、これまでの仕事をひとつにつなぐ話をしたい」
として、我々に伝えたかったことは何なのだろうか。
必死で何かを伝えようという言葉には、何か真実が含まれているような気がした。