じじぃの「人の死にざま_869_P・ヴェルレーヌ」

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Paul Verlaine - Vicente Monera "Chanson d'automne" 動画 YouTube
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Paul Verlaine - Poesie D'Amore 動画 YouTube
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ポール・ヴェルレーヌ  フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)は、フランスの詩人。ステファヌ・マラルメアルチュール・ランボーらとともに、象徴派といわれる。多彩に韻を踏んだ約540篇の詩の中に、絶唱とされる作品を含みながら、その人生は破滅的であった。
日本語訳では上田敏による「秋の日のヰ゛オロンのためいきの……」(落葉=秋の歌)、堀口大學による「秋風のヴィオロンの附節ながき啜泣……」(秋の歌)、「巷に雨の降るごとく……」などの訳詩で知られる。
【生涯と作品】
ドイツに接するモゼル県のメスに生まれた。父は、ベルギー生まれのフランス軍人。母は、パ=ド=カレー県アラス近郊の生まれ。経済的な環境は恵まれていた。
父を喪う(21歳)。マチルド・モーテ(Matild Maute)と婚約し(25歳)、翌年挙式。間もなく普仏戦争(1870年7月19日 - 1871年5月10日)に召集された。1871年パリ・コミューン鎮圧(5/20 - 28)の騒擾を、パリのパンテオン近くの自宅で避けた。失職した。
結婚1年後、ランボーと会い、妻に乱暴を繰り返した上、彼と同棲し、イギリス・ベルギー・北仏を転々した。母と妻が説得に来ても、置き去りにして逃げ、妻に絶縁状を書いた。ユーゴーに妻との交渉を懇願した。ロンドンで病臥し、母を呼んだ(28歳)。転々するブリュッセルで、ランボーにピストルを撃ち、収監された(29歳)。妻の別居請求(この時点では離婚はしていない)が認められたことを獄中で知り、落胆し、カトリックに帰依した(30歳)。一年半後出獄し、元妻との和解をはかる一方、旅先でランボーと格闘した(31歳)。
左膝を患い、一時慈善病院へ(41歳)。経済的援助をした母死亡、葬儀には病気で不参。ホテルを追い出され(42歳)、以降慈善病院を転々(42歳-)。
入院2回(50歳)。文部省から救済の500フランを受け取る。パンテオン近くの自宅で、娼婦に看取られて死去。

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落葉 上田敏訳 『海潮音』より
「秋の日の ヰ゛オロンの ためいきの ひたぶるに 身にしみて うら悲し
 鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ 過ぎし日の おもひでや
 げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな」

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ヴェルレーヌ (1844-1896) 52歳で死亡 (一部抜粋しています)
ヴェルレーヌは、大事に使えば一生困らぬだけの財産を親から残され、自分はパリ市役所に勤め、それで満足しているなら、平凡で安泰な一生を送れるはずだった。
しかし彼は、オランウータンと呼ばれた醜貌(しゅうぼう)を持ち、怒り易く、また誘惑に負け易く、多情なくせに女に内気で、コンプレックスから来るアルコール中毒で、そして何より多感な詩魂の持主であるという複雑な人間であった。
奇蹟のごとき美少女マッティルド・フルールヴィルという妻を得ながら、やがて彼は家庭を捨て、彼が「わが悪霊」と呼んだ背徳の美少年アルチュール・ランボーと、手に手をとってイギリスやベルギーを放浪し、果ては、彼から去ろうとするランボーをピストルで撃って負傷させ、刑務所にはいる羽目になった。獄中で書いた『無言の恋歌』の中に、のちに日本で愛称された、
「巷に雨の降るごとく
 わが心にも涙ふる。……」
の詩があった。(堀口大学訳)
その後も、田舎教師になったり、農業をはじめてみたりしたが、魔酒アブサンへの惑溺と自己破滅的な性格はついに彼を立ち直らせず、40歳を過ぎてからは、左膝の関節水腫で働くことも出来ず、杖をつきながら各地の施療病院を経(へ)めぐるようになり、「ひとは死ぬために施療病院にはいるが、ヴェルレーヌは生きるために施療病院を利用する」と悪口をいわれるようになった。彼は晩年実に通算4年間も施療病院の世話になった。
       ・
「寒くさびしい古庭に、ふたりの恋人通りけり、
 まなこおとろえ、口ゆるみ
 ささやく話もとぎれとぎれ。
 お前はたのしい昔のことをおぼえておいでか
 なぜおぼえていろとおっしゃるのです
 ああ、ふたり唇をあわせた昔
 あやうい幸福の美しいその日
 そうでしたねえ
 昔の空は青かった、昔の望は大きかった
 けれど、その望みは破れて、暗い空にと消えました。
 からす麦、しげった中の立ちばなし
 夜よりほかにきくものもなし」
               (ヴェルレーヌ『わびしい対話』 永井荷風訳)
ヴェルレーヌにもそんな日があったのか? あったとしても、その日は遠く消え去った。晩年には詩想も衰えはてた。
彼が死んだのは、しかし施療病院ではなく、デカルト街の、暗い湿っぽい貸間で、ベッド1つの寒々とした部屋で、肺炎のために高熱を発し、1896年1月7日の夜ふけ、ベッドから這い出そうとしてころげ落ち、同棲していた老売春婦ユージェニーがベッドに戻そうとしたが力及ばず、床に横たわったままのヴェルレーヌにありったけの毛布をかけた。ヴェルレーヌは昏睡状態のまま、8日に死んだ。

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