じじぃの「人の生きざま_50_吉本・隆」

訃報:吉本隆明さん87歳=評論家、詩人 (追加) 2012年3月16日 毎日jp
1960年代の新左翼運動で教祖的存在と目され、独自の思考に根ざした文化・社会批評で戦後思想界を牽引(けんいん)した詩人、評論家の吉本隆明(よしもと・たかあき)さんが16日午前2時13分、肺炎のため東京都文京区の病院で死去した。87歳。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120316k0000e040164000c.html
プライムニュース 「追悼番組 吉本隆明の現代 日本における意味」 (追加) 2012年04月13日 BSフジ
【キャスター】島田彩夏、反町理、小林泰一郎 解説委員 【ゲスト】文芸評論家 三浦雅士、評論 芹沢俊介
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d120413_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d120413_1
吉本隆明 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%90%89%E6%9C%AC%E9%9A%86%E6%98%8E/1205/
吉本隆明 語る〜沈黙から芸術まで〜 ETV特集 1月4日(日) NHK
戦後思想界の巨人と呼ばれ、日本の言論界を長年リードしてきた吉本隆明さん。84歳になった今も、自らの「老い」と向き合いながら、思索を続けている。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2009/0104.html
吉本隆明 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
吉本隆明1924年11月25日 - )は、思想家、(詩人、文芸批評家)、東京工業大学世界文明センター特任教授(講義はビデオ出演のみ)。日本の言論界を長年リードし、「戦後最大の思想家」と呼ばれている。血液型はA型。「隆明」を音読みして「りゅうめい」と読まれることも多い。漫画家のハルノ宵子は長女。 作家のよしもとばななは次女。
【来歴】
東京市月島生まれ。
1945年東京工業大学に進学。在学中に数学者遠山啓と出会っている。敗戦直後、遠山啓教授が自主講座を開講。「量子論の数学的基礎」を聴講し、決定的な衝撃を受けたという。今までに出会った特筆すべき「優れた教育者」として、私塾の今氏乙治と遠山啓の二人をあげている。 1947年9月に東京工業大学工学部電気化学科卒業。
1949年、25歳のとき『ランボー若しくはカール・マルクスの方法についての諸注』を、「詩文化」に執筆。そこでは、「意識は意識的存在以外の何ものでもないといふマルクスの措定は存在は意識がなければ意識的存在であり得ないといふ逆措定を含む」「斯かる芸術の本来的意味は、マルクスの所謂唯物史観なるものの本質的原理と激突する。この激突の意味の解析のうちに、僕はあらゆる詩的思想と非詩的思想との一般的逆立の形式を明らかにしたいのだ」と述べている。
1960年1月、「戦後世代の政治思想」を『中央公論』に発表。また同誌4月号では共産主義者同盟全学連書記長島成郎らと座談会を行うなど、吉本は60年安保を、先鋭に牽引した全学連主流派に積極的に同伴することで通過した。吉本は、6月行動委員会を組織、6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加、また、無数の人々が参加した安保反対のデモのなか、6月15日国会構内抗議集会で演説。鎮圧に出た警官との軋轢で死者まで出た流血事件の中で100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕された。18日釈放。逮捕、取調べの直後に、近代文学賞を受賞する。
60年安保直後に、その総括をめぐって全学連主流派が混乱状態に陥った以降は、「自立の思想」を標榜して雑誌「試行」を創刊(61年9月)。この『試行』において吉本は、既成のメディア・ジャーナリズムによらず、ライフワークと目される『言語にとって美とは何か』、『心的現象論』を執筆・連載した。「試行」創刊号の吉本筆の編集後記では「試行はここに、いかなる既成の秩序、文化運動からも自立したところで創刊される。(中略)同人はもちろん、寄稿者も、自己にとってもっとも本質的な、もっとも力をこめた作品を続けるという作業をつづけながら、叙々に結晶するという方策のほかに出発点をもとめないしもとめることにあまり意味を認めない。」とその理念が述べられている。
【思想と評価】
吉本は文学からサブカルチャー、政治、社会、宗教(親鸞新約聖書)など広範な領域を対象に評論・思想活動を行い、多数の著作がある。
1960年代、1970年代、日本で圧倒的な影響力を持っていたことから、戦後思想の巨人とも言われている。実際、海外の著名知識人が来日した際にも吉本は呼ばれることが多く、ミシェル・フーコー、フェリックス・ガタリ、イヴァン・イリイチボードリヤールなどとの対談が出版されている。

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文藝春秋 2010年12月号
「安保と青春・されどわれらが1960」
吉本隆明(よしもとたかあき) −−大失敗 警官隊から逃げ込んだところは警視庁 (一部抜粋しています)
僕は全学連主流派とともに6月3日夜から翌日にかけての品川駅坐り込みにも参加しました。どこかの組織の一員としてではなく、あくまで年寄りインテリの「一兵卒」としてです。
全学連の学生さんのなかには、岸内閣を退陣させ、日本の資本主義を打倒して、革命を起こすんだ、と思いつめて、しんでもいいという覚悟で、安保闘争に臨んでいた人もいました。
でも、僕はすでに36で、学生さんよりも随分と年をとっていましたから、そこまで重く捉えることはできなかった。この闘争は命を賭けるほどのものではない、と思っていました。なぜなら、すでに日本の資本主義はかなり繁栄していて、岸信介首相がアメリカと結んだ新安保条約は、敗戦から15年経って米国から相対的な独立を果たしつつあった日本の意志だと認識していたからです。岸内閣は倒せても、日本の資本主義はこれくらいのことでは崩壊しないだろう、というのが僕の判断でした。だから、「安保反対」を唱えることは、むしろ日本の資本主義に反抗する最後の機械になるだろう、という思いで、安保闘争に加わっていました。
安保闘争の過程で、共産主義者同盟(ブント)の書記長として、全学連主流派を指導していた島成郎さん(故人)と会い、その話に感心したことも、「一兵卒」として参加した大きな理由です。
あるとき、島さんは本郷の東大前の喫茶店鶴見俊輔さんや竹内好さんといった年寄りのインテリを呼んで、私たち学生は自分たちだけの力で、安保闘争を貫徹するつもりだから、皆さんには見守っていただきたい、という主旨のことを述べました。闘争はうまく行けば、同伴していたインテリの手柄のように喧伝され、負ければ学生さんの乱暴な振る舞いのせいにされます。島さんはそんな常識に釘を刺しておきたかったのだと思い、大いに同感しました。インテリは手を出してくれるな、という意味にとれる強い決意を聞いて、僕はこの人には指導者の資質があるな、と思いました。
6月15日は仲間の車で国会に駆けつけるはずだったのですが、予定の時間になっても車が来なかった。国会に到着したときは、すでに全学連主流派を中心としたデモ隊が南通用門から国会内に突入しようとして、警官隊と激しく衝突した後でした。だから、僕は樺美智子さんが殺された現場にはいません。僕が合流したのは、学生さんがその後、午後8時に再度突入を試みて、国会の構内に入り、抗議集会を開く前後のことでしょう。すると、学生さんたちから、吉本が来ているなら、何か話してもらおう、という声が上がり、こっちは「一兵卒」のつもりで来ているから、何の準備もしていない。かといって、断る理由もないので、話すことにしました。でも、ここで演説すれば、間違いなく逮捕されるな、と思って、たまたま一緒にいた義兄に「あとのことはよろしく」と言い残して、皆の前で話をしました。急なことでしたから、演説の内容は今となっては憶えていません。
話し終ってしばらくしたころでしょうか。警官隊の襲撃が突然、始まりました。頭は俺のいちばんの武器だから、頭だけは警棒で殴られないように、一生懸命逃げました。でも、これを越えれば、警官の包囲網を突破できるはずだと思い、2メートルぐらいの塀を乗り越えたら、そこは何と桜田門の警視庁でした。そこで建造物侵入の現行犯で逮捕され、3日間留置されました。官庁街の地理も知らないで闘争に参加するなんて、といわれればそれまでで、弁解の余地のない失敗です。
逮捕されようがされまいが、全学連主流派と行動をともにすることで、僕は文筆業界から干されることを覚悟していました。

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吉本隆明 Google 検索
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