じじぃの「人の生きざま_535_鶴見・俊輔(哲学者)」

鶴見俊輔氏が死去、93歳 哲学者「思想の科学 2015/7/24 日本経済新聞
 戦後言論界の中心人物の一人で哲学者の鶴見俊輔氏が20日午後10時56分、肺炎のため死去した。93歳だった。告別式は故人の遺志で行わない。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24H46_U5A720C1CC0000/
鶴見俊輔さん死去 「思想の科学」「ベ平連」93歳 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NNy0rYduI3w
べ平連 鶴見俊輔 (HuffPost HPより)

鶴見俊輔 ウィキペディアWikipedia)より
鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日)は、日本の哲学者、評論家、政治運動家、大衆文化研究者。

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文藝春秋 2015年10月号
蓋棺録 鶴見俊輔 哲学者 (一部抜粋しています)
哲学者・鶴見俊輔は、大衆芸能や漫画を論じ、ユニークな知識人として活躍した。
1922(大正11)年、東京に生まれる。父は政治家の鶴見裕輔、母は後藤新平の娘。4歳上に社会学者となる和子がいた。
厳格な教育をする母親への反発から、小学生のときに盗みを繰り返し、10歳代で歓楽街に出入りした。旧制中学に進んでからの素行が悪く退学。転校先の中学でも問題を起こして追い払われた。
仕方なく父は15歳の鶴見を米国に「留学」させたが、英語が話せなかった。しかし後見人のアンサー・シュレンガーや留学中の都留重人のアドバイスで英語を学ぶうち、ある日、「英語がわかっている」ことに気づき、16歳でハーバード大学に合格した。
41(昭和16)年、「プラグマティズム」の研究に邁進していた大学3年生のとき、日米開戦。身上書の信奉思想欄にふざけて書いた「アナーキズム」が問題となって留置される。翌年、帰国するか否か迫られ、「負けるときには負ける側にいたい」と思い捕虜交換船で日本に帰った。
戦後、京都大学人文科学研究所に助教授として招かれ、桑原武夫梅棹忠夫などとの交友を深めた。その後、東工大に移るが、60年安保騒動を機に辞任し、同志社大教授となって70年まで務めた。
雑誌『思想の科学』を刊行し続け、ベトナム戦争時には小田実などと「べ平連」を主導。また、安田武、山田宗睦と、8月15日に坊主頭になるパフォーマンスを実行した。近年は「九条の会」の呼びかけ人となって、憲法改正の動きを牽制していた。
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思想的故郷が、大学生時代の米国であることは自覚していたが、再訪することは一度もなかった。意識的に回帰したのは少年時代だった。
93歳没。