じじぃの「人の死にざま_1145_久保田・万太郎」

久保田万太郎 - あのひと検索 SPYSEE
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朗読 久保田万太郎「あしかび」前編 動画 YouTube
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俳句鑑賞・その十四「久保田万太郎
http://homepage1.nifty.com/uesugisei/ikku14.htm
久保田万太郎 ウィキペディアWikipedia)より
久保田万太郎(くぼたまんたろう、1889年(明治22年)11月7日 - 1963年(昭和38年)5月6日)は、浅草生まれの大正から昭和にかけて活躍した俳人、小説家、劇作家。生粋の江戸っ子として伝統的な江戸言葉を駆使して下町情緒と古典落語を愛し、滅びゆく下町の人情を描いた。俳号は暮雨、傘雨。筆名は千野菊次郎。
【経歴】
1889年(明治22年)に浅草田原町三丁目に生まれる。
1937年(昭和12年)、岸田国士岩田豊雄らと劇団文学座を結成。以後新派、新劇、文学座の演出を数多く手がける。明治座や有楽座、国民新劇場で「ゆく年」、「釣堀にて」、「蛍」、「雨空」などを上演。他にも里見紝と親交を結び、脚色演出を行う。1942年(昭和17年)に日本文学普及会より菊池寛賞を受領。4月から内閣情報局の斡旋にて満州国に滞在。日本文学報国会劇文学部幹事長となり、日比谷公会堂における日本文学報国会の発会式に劇文学部会長として宣誓を朗読。翌年に『日本演劇』『演劇界』を発行する日本演劇社社長となり、上海に赴く。『東京新聞』に長篇小説「樹蔭」を発表。
1945年(昭和20年)5月の空襲で被災し、家財・蔵書のほとんどすべてを失った。
【人物・逸話】
・浅草ゆかりの文人たちの遺作を通して東京の下町文化を継承していこうと、「みつわ会」という劇団が結成され、公演が行われている。

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『老いらくの花』 小沢昭一/著 文藝春秋 2006年発行
久保田万太郎色紙 (一部抜粋しています)
「俺、結婚する。君等も結婚しろよ」と、今村昌平が急に言い出しました。「君等」とは北村和夫加藤武、そして私です。お互い大学時代からの仲間で、それぞれ映画、演劇の道に進んでいました。
食うや食わずの戦後間もなくの時代でしたから「4人一緒に、会費制の合同結婚式をあげれば費用は安上がりだ」という今村の案にはノルのですが、急にそう言われても結婚は相手のあること、言われた3人はとまどいました。
もっとも、3人とも意中の女(ひと)はすでにいて、今村もそれを見越しての発言のようで、早く決着をつけろ、ということでもあるらしく、後の名監督今村は、あおの頃から吾々グループの兄貴株でありました。
「費用が安上がりになる」――当時としては魅力ある提言でして、3人はそれぞれ、都合をつけて、結婚することになりました。……本稿は「久保田万太郎色紙」と題しておりますのに、この結婚話のまだ続く紆余曲折を詳しく述べておりますと、久保田先生が登場しませんので、端折(はしょ)ります。
結果だけ申しますと、言い出しっぺなのに今村は、なにやら、都合つかず、合同からはずれ、北村、加藤、小沢の3人も、諸般の都合で、式は別々に、披露宴のみ合同ということになりました。
北村、加藤が当時文学座の有望若手俳優であります関係で、岩田豊雄岸田国士と共に文学座の監事だった久保田先生が、あの頃まだ珍しかった会費制の披露宴に、早稲田の大隈会館までお越し下さったのであります。
宴の趣向のあまりのバカバカしさに、あきれ返られたのか、先生、中途でお帰りでしたが、機を見るに敏なる私は色紙を持って先生を追いかけ、車に半分、身体の入っている先生に一筆をとお願いしました。あとの2人とは違い、文学座とは何も関係もない私、これが、はじめて先生に接して、以後、いちどもお目にかかったことはないのです。
先生、ジロッと私をにらみ、「ああ、今日の新郎のひとりか」というお顔で、しかし、片足が車に入ったまま、私の差し出しました色紙に、すぐ、サラサラと一句したためて下さいました。
 菊が香やかたみに思ふことひとつ 万
ウレシカッタァ。なにしろ私、あこがれの先生。実際、文学座の北村、加藤よりも私は久保田文学に傾倒しておりましたよ。もう、10代の頃から、ナマイキにも久保田万太郎作の児童劇『ふくろうと子供』や『北風のくれたテーブル掛け』を演出しておりましたし、貧乏学生時代に工面して買い揃えた『久保田万太郎全集』も読破していましたし、久保田戯曲をマネした拙(つたな)い一幕物を書いて手書きの同人雑誌に寄せたりもしていました。芭蕉よりも一茶よりも一番好きな一句は「奉公にゆく誰彼や海蠃(ばい)廻し」です。
そんな私でしたから、先生に書いて頂いた色紙はタカラモノ。もう大切にしまってあるのです。……と申し上げたいのですが、実は、わが家では、以前より書画の類はすべて、保存は、私の老母の役でありましたから、私は母親に預けて安心しておりました。
しばらく経って、その色紙を拝もうと母に言いましたら、「あいよ」と箱をあけて探し……「ない」。
「ない」じゃ困るのでありまして、追求しましたら、
「ああ、そういえば、何か一枚、チョンチョンと小さく汚れてるのがあって、あれは捨てたよ」
「エエッ! それだァ、チョンチョンって、そういう字なんですよ。久保田先生の字は……」

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