じじぃの「人の死にざま_796_池田・菊苗」

池田菊苗 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%8F%8A%E8%8B%97/18337/
懐かしのCM - 味の素 - ハイミー - 1971 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=EGnro-Bfx5g&feature=related
うま味の発見と池田菊苗教授 東京大学 大学院理学系研究科・理学部
http://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/treasure/02.html
グルタミン酸を多く含む食品 Whole Food Catalog
http://wholefoodcatalog.com/nutrient/%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%83%B3%E9%85%B8/high/%E9%A3%9F%E5%93%81/
クローズアップ現代 「“UMAMI”が世界を制す!? 発見 驚きのパワー」 2013年2月28日 NHK
【キャスター】国谷裕子 【ゲスト】熊倉功夫静岡文化芸術大学学長・和食の世界遺産化プロジェクト座長)、二ノ宮裕三(九州大学大学院 歯学研究院教授)
この秋、「世界遺産」登録をめざす「和食」。その味の基本をなす「うま味」が、デンマークにある世界一のレストランを筆頭に、世界のトップシェフたちをとりこにしている。背景にあるのは、日本の料理人たちの危機感。和食文化の存続を危ぶみ、海外に活路を見いだそうと、海外の有名シェフたちに日本料理の味を教えたことがきっかけになった。今や味が不評だったイギリスの航空会社の機内食改革にも日本発の「うま味」が活用されている。この動きは医療現場にも広がり、高齢者に多い「ドライマウス」の治療や、がん治療の副作用で味覚異常になった患者の食生活改善に役立てる取り組みが始まっている。日本人の味のふるさと「うま味」のパワーに迫る。
現在では甘味、酸味、塩味、苦味、うま味 の5つが受容体を介して膜電位の活性化を引き起こしていると考えられており、生理学的にはこの5つが味覚であるといえるため、5基本味と位置づけられる。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3318.html
池田菊苗 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
池田菊苗(いけだきくなえ、1864年10月8日(元治元年9月8日) - 1936年5月3日)は、戦前日本の化学者。
【来歴・人物】
1864年薩摩藩士池田春苗の次男として京都で出生する。
1889年、帝国大学理科大学化学科(現東京大学理学部化学科)卒業、大学院へ進学する。
1899年より、物理化学研究のためにドイツ・ライプツィヒ大学オストワルド研究室に1年半留学する。
1901年5月から10月までロンドンに滞在。夏目漱石と同じ下宿に住み、以降親交を持つ。帰国後、東京帝国大学教授に昇進。
1907年、酸甘塩苦の4基本味以外の味成分を「うま味」と名づけ、単離研究に着手。昆布の旨み成分がグルタミン酸ナトリウムであることを発見し、翌1908年にグルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を取得。1909年5月、うまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現味の素株式会社)から発売された。本人はグルタミン酸を、「具留多味酸」と表記した。
1917年、理化学研究所の創立に参加(同化学部長)。
高弟に鰹節のうま味成分であるイノシン酸を発見した小玉新太郎がいる。
小栗旬が池田に扮した味の素社のテレビCMが2008年より放映されていたことから、一般に認知度を広めている。

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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
池田菊苗 『化学者池田菊苗―漱石・旨味・ドイツ』東京化学同人 現代日本人のからだとこころを決定づけた男 【執筆者】竹中朗 (一部抜粋しています)
現代日本人の「からだ」と「こころ」を決定づけた男。それが、彼である。――とは少々鬼面人を驚かす類だが、種を明かすと、彼の重大なる発見はまずグルタミン酸塩。そう、つまり「味の素」そのものである、言うまでもなく「味の素」は明治末期の誕生以降、日本人の食文化の姿を変えてしまった。現在その販売圏の広がりはアジアを中心に世界的であり、かなりの数の人類の味覚という生理が、今やこの発見によって食品工業的に基礎付けられていると言ってよいだろう。
それはそれとして、では「こころ」とは何であったか。ここもまた牽強付会めくが、夏目漱石のロンドン留学時、ノイローゼ気味だった漱石の宿に飛び込んできたのが池田だったのである。明治34年の3ヵ月間、毎日のように語り合い、論じ合った。禅から哲学まで広汎な知識を有する池田との対話は、弱り切っていた漱石に精神にかなりの刺激を与え、「お陰で幽霊のような文学をやめて、もっと組織だったどっしりした研究をやらうと思ひ始めた」と回顧しているように、転回転『文学論』への執筆につながるのである。漱石文学のその後を考えると、池田の存在は日本人の「こころ」をも決定づけた――というのは、さて、言い過ぎだろうか。

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