じじぃの「人の死にざま_1109_蜀・山人」

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大田南畝天明狂歌
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大田南畝 ウィキペディアWikipedia)より
大田南畝(おおたなんぽ)は、天明期を代表する文人狂歌師。
膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。勘定所幕吏として支配勘定にまで上り詰めた一方、余技で狂歌集や洒落本などを著した。唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループを、山手連(四方側)と称した。
名は覃。字は子耕、南畝は号である。通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、蜀山人。狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚先生と称した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
蜀山人(しょくさんじん) (1749-1823) 74歳で死亡。 (一部抜粋しています)
寛政の改革時、
「世の中にかほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜も寝られず」
という狂歌の作者だという評判を立てられて、江戸後期の狂歌師、大田南畝またの名を蜀山人またの名を四方赤良は「コレ大田ノ戯歌ニアラズ偽作ナリ。大田ノ戯歌ニ時ヲ誹(そし)リタル歌ナシ」と、大まじめに弁明した。この歌のほんとうの作者がだれかは知らず、蜀山人は本名大田直次郎という幕府御勘定所に勤務する謹直な役人であった。
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文政5年3月3日、73のとき彼は2階から下りようとして階段を落ちて、それ以来身体が弱った。「つらつら思えば、老病ほどみたくでも(みっともなく)いまいましきものはあらじ。家内のものには飽きられて、よくとりあつかうものなし」と彼は歎いている。
しかしその後やや元気をとりもどし、翌文政6年4月3日、志村座に菊五郎団十郎、半四郎などの芝居を見にいった。
翌日ようすがすこしおかしかったが、夕食はきげんよく、ひらめをおかずに茶漬を食べ、詩歌など作った。
「ほととぎす鳴きつるかた身はつ鰹(かつお)春と夏との入相(いりあい)の鐘」というのが絶筆になった。
6日の朝、彼は起きてこなかった。家人がのぞくと、床の中で死んでいた。脳溢血であった。

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