じじぃの「人の死にざま_457_一休・宗」

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一休-1975 動画 YouTube
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まんが日本昔ばなし 「一休さん 動画 YouTube
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一休宗純 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は室町時代臨済宗大徳寺派の禅僧である。説話のモデルとして知られる。
【生涯】
出生地は京都で、出自は後小松天皇落胤とする皇胤説が有力視される 。
『一休和尚年譜』によると母は藤原氏南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けていたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだという。
応永27年(1420年)のある夜、カラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後は詩・狂歌・書画と風狂の生活を送った。
正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位した。後花園天皇の即位には一休の推挙があったという。
応仁の乱後の文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に任ぜられ、寺には住まなかったが再興に尽力した。塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。
1481年、88歳で酬恩庵においてマラリアにより没した。臨終に際し、「死にとうない」と述べたと伝わる。酬恩庵は通称「一休寺」と言い、京都府京田辺市の薪地区にある。康正2年(1456年)に荒廃していた妙勝寺を一休が再興したものである。墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれるが宮内庁が御廟所として管理している陵墓であるため、一般の立ち入り・参拝は不可能である。
【人柄】
自由奔放で、奇行が多かったと言われる。以下のような逸話が伝わっている。
印可の証明書や由来ある文書を火中に投じた。
・男色はもとより仏教の戒律で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の森侍者(しんじしゃ)という側女や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。
・朱鞘の木刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
一休(いっきゅう) (1394-1481) 87歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「世の中は食うてかせいで寝て起きて
  さてその後は死ぬるばかりぞ」
「世の中はへちまの皮のだんぶくろ
  底がぬければ穴へどんぶり
「極楽は十万億土はるかなり
  とれもゆかれぬわらじ一足」
一休は堕落した官寺五山を罵り、みずからは酒し淫房に出入りし、女犯肉食、風狂のままに生きた。
80歳でやっと大徳寺に落着いて、応仁の乱で焼失した法堂の再興にあたったが、一方ではその晩年の10年、盲目の美女森(しん)を愛し、「極楽はそなたのほかにない。そなたの恩を忘れたら、わしは死後畜生の身に落ちるだろう」と感謝した。
文明13年ごろから病を発し、この年の「冬ぎやく」を発し、11月21日卯の刻(午前6時ごろ)寂した。ぎやくとは一般にマラリアのことだが、この場合は高熱をする病気たとえば肺炎のごときではなかったろうか。
死するにあたって一休は「死にとうない」といって、坐ったまま眠るように死んだという。

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