じじぃの「人の死にざま_821_成島・柳北」

成島柳北 - あのひと検索 SPYSEE
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成島柳北と朝野新聞:近代ジャーナリズムの草分け
朝野新聞は日本の新聞の草分けのひとつであり、明治8年から9年頃にかけては他の新聞をしのぎ、もっとも影響力のある新聞だった。成島柳北はそれをリードして、政府による新聞弾圧に果敢に立ち向かったことで知られる。
http://japanese.hix05.com/Literature/Ryuhoku/ryuhoku03.html
成島柳北 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
成島柳北は江戸時代・幕末期の徳川幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、ジャーナリスト。明治時代以降はジャーナリストとしても活躍。また、姪孫に俳優の森繁久彌がいる事でも著名。
【略歴】
武蔵国浅草御廐河岸(現・東京都台東区蔵前2丁目)の松本家の3男として生まれた。
成島家は19世紀前半から『徳川実紀』、『続徳川実紀』、『後鑑』などの編纂を続けており、柳北も長じてこれに従った。徳川家定、家茂に侍講するが、献策が採用されないため狂歌で批判し、解職される。この際、洋学を学ぶ。また、慶応年間に騎兵頭、外国奉行(3千石.従五位下.大隅守)、会計副総裁等を歴任。
明治維新後、仔細あって平民籍となるが、東本願寺法主の大谷光瑩の欧州視察随行員として1872年(明治5年)、共に欧米を巡る。
欧州では岩倉具視木戸孝允らの知遇を得、特に親交のあった木戸からは帰国後、文部卿の就任を要請されたが受けなかった。また柳北は欧州視察の際に共済制度を見聞し、帰国後にそれを安田善次郎に伝え安田と共に日本最初の生命保険会社「共済五百名社」(現「明治安田生命」)を設立。1874年(明治7年)に『朝野新聞』を創刊、初代社長に就任。
商法会議所(現商工会議所)の設立、墨田川河畔の桜植樹等にも尽力、前米大統領のグラントの接遇委員も勤めた。1884年明治17年)11月30日、胸の病のため、満47歳の若さで死去。

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プロジェクトJAPAN 「新聞ジャーナリストの草分け 成島 柳北」 動画 NHK
幕府の要職にあった成島は、維新後新政府出仕の要請を拒否。明治5年(1872年)東本願寺ヨーロッパ視察団に随行、パリで出会った岩倉使節団が工場や要塞を重視するのにたいして、成島は西洋の文化や人権重視の政策に着目する。帰国後創刊されたばかりの朝野新聞の編集長に就任。文明開化の軽薄さを皮肉り、藩閥政府を批判、世論の支持を受けた。
http://cgi4.nhk.or.jp/japan/moviegreatpersons/index.cgi?das_id=D0003200011_00000&seg_number=001
『幕末明治の肖像写真』 石黒敬章/著 角川学芸出版 2009年発行
儒者から反骨のジャーナリストとなった豪放磊落な人 (一部抜粋しています)
成島柳北 (なるしまりゅうほく、1837年 - 1884年) 47歳で死亡。
幕臣。若き儒者として徳川家定、家茂に仕える。明治元年(1868)、会計総裁大久保一翁(いちおう)のもとで副総裁を務める。同5年、東本願寺法主現如上人(げんしょうにん)に随行。フランス、イギリス、アメリカを外遊して翌年帰朝する。パリで森有礼と会う。
帰国後は官途につかず、外遊をまとめた『航西日乗』を著し、柳橋花柳界のことから維新の世相を綴った『柳橋新誌』を刊行。『朝野新聞』の社長となり、痛烈な政治風刺を行った。柳橋で豪遊するなど豪放磊落(らいらく)な人だったという。明治16年鹿鳴館の落成式に招かれたが、その翌年結核で没。

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