じじぃの「人の死にざま_1038_柴田・是真」

柴田是真 - あのひと検索 SPYSEE
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无字幕] 極上美の饗宴 111128 世界が驚嘆したニッポン (3) 漆のダ ヴィンチ 柴田是真 動画 Youke
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富士田子浦蒔絵額面 画像
http://blog-imgs-35.fc2.com/n/e/k/nekoarena/201001132248268d5.jpg
急須の柄にコオロギ 画像
http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/c3/71/rakutyu_netsuke/folder/1036258/img_1036258_42793887_0
花瓶梅図漆絵 画像
http://blog-imgs-23.fc2.com/h/e/m/hemiola/20100110201517437.jpg
月薄鈴虫蒔絵額

展覧会 / 開催中|根津美術館
ZESHIN
柴田是真の漆工・漆絵・絵画
2012年11月1日(木)〜12月16日(日)
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/index.html
柴田是真生誕二百年展公式サイト
http://makie-museum.com/zeshindex.html
日曜美術館 「柴田是真 漆で“粋”を極めた男」 2012年11月25日 NHK Eテレ
【司会】千住明森田美由紀 【主演】深澤直人プロダクトデザイナー日本民藝館館長)、室瀬和美漆芸家人間国宝
幕末から明治にかけてヨーロッパの人々を驚かせた日本の工芸品。想像を超える高度な技で作られた品々は圧倒的な人気を博した。中でも、日本を象徴する素材“漆”で常識を覆す作品を生みだし、今なお称賛され続けているのが、蒔絵師、柴田是真(1807−1891)だ。
是真(ぜしん)は、江戸に生まれ、11歳の時、漆に金や銀で装飾を施す蒔絵の道に入った。しかし、京都に渡って絵師としての修行も積み、漆で絵画のような世界を作り出す独特の作風を築き上げた。漆は耐久性に優れているが、粘りけがあることから扱いはとても難しい。それを自在に操り、しゃれと遊び心に満ちた斬新な作品を次々と生み出していった。一見シンプルに見えて、肉眼では気付かないほど細部にこだわった作品は、どれだけ見ても尽きない発見がある。江戸っ子の粋な感性と、旺盛な探究心、そして職人の徹底的なこだわりが一体となり、“ZESHIN world”が誕生した。
誰にも真似のできない超絶技巧はどのようにして生まれたのか。現代を代表する漆芸の人間国宝がその技法を再現。さらに、プロダクトデザインのトップランナー深澤直人さんが、展覧会場で、作品の魅力に迫ります。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2012/1125/index.html
柴田是真 ウィキペディアWikipedia)より
柴田是真(しばたぜしん、文化4年2月7日(1807年3月15日) - 明治24年(1891年)7月13日)は、江戸時代末から明治中期にかけて活動した漆工家、日本画家。幼名亀太郎、名は順蔵、号は是真、令哉、対柳居、沈柳亭など。日本の漆工分野において、近世から近代への橋渡しする役割を果たした工人である。
【略歴】
文化4年(1807年)に、越後出身の宮彫師の子で、袋物(煙草入・紙入・印籠など)商に婿養子となった柴田市五郎の子として、江戸両国橘町に生まれる。父は商家に入った後も、彫工として宮大工の仕事に参加した職人であり、浮世絵を好み勝川春章に師事していた。
蒔絵や漆絵では、青海勘七以来絶えていた青海波塗を復活し、青銅塗・四分一塗・鉄錆塗・砂張塗・紫檀塗・墨形塗などの新技法を創始する。また、独特の作風で、内国勧業博覧会などに出品したり、博覧会の審査員をつとめたりして、明治漆工界に貢献した。江戸っ子気質だったらしく、東京府知事楠本正隆の仕事依頼を、「自分は公方様(徳川幕府)の時代に人になった者であるからお断りする」、と言ってなかなか引き受けなかったという逸話がある。国芳の弟子だったこともある河鍋暁斎とは仲が悪かったと言われているが、静嘉堂文庫美術館には、画帖は暁斎、木箱は是真という両者合作の作品が所蔵されている。
明治6年1873年)のウィーン万国博覧会に「富士田子浦蒔絵額面」を出品して進歩賞牌を受賞する。

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『本朝画人傳 四卷』 村松梢風/著 中央公論社 1976年発行
柴田是真 (一部抜粋しています)
日本の美術工芸品が外国の博覧会へ出品されたのは、明治6年墺太利(オースタリー)大博覧会の出品をもって嚆矢(こうし)とする。是真はそのとき「富士田子の浦の図」を現した蒔絵の額を出品した。それは、高さ四尺五寸の大作であった。蒔絵の額としてこれほど大きな物は前後に比類がないのである。
明治17年の絵画共進会のときは、是真は、蝉丸が琵琶を弾じている絵をかいて出品した。彼はその前々年の明治15年9月初めて第1回絵画共進会が開かれたときから、審査員を命ぜられているのだった。すると友人がその蝉丸の絵を観て来て、1日対柳居を訪問して、こういって批評した。
「今度の貴君の出品を見ると、博雅の三位はすこぶる申し分のない出来だが、蝉丸が口を開いて歌をうたっている点にいたっては私には理解できない。伝わるところによると、博雅の三位の盗み聴きした琵琶の曲は、流泉啄木ということになっている。しかるに、これは雅曲であって歌曲ではない、貴下のお考えはいかがですか」
是真はこの批評を聴いて大いに喜んだ。
「いや実に良いことを教えてくだすった。貴下の批評を聴かずにいると、私はいつまでも自分の無識を覚る機会がなかったでしょう。実は今朝もあるところで審査員の幸野媒嶺と会ったところが、媒嶺は私の出品画を激賞していたのです。万一銀賞でも与えられるようなことがあると審査員までが笑われるところでした。ああ、危険危険」
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是真はすこぶる多芸多能で、彫刻をもよくし、俳諧は小原庵春湖を友として、一生を通じて秀吟がすこぶる多い。また茶は自習軒宗意について、台子(だいす)皆伝を受けた。彼が初めて茶に志したのは、かって浅草本願寺の嘱に応じ、寺へ行って襖に揮毫をなすべくおもむろに構図を練っていると折りから1人の小姓が出て来て抹茶をすすめた。そのころの彼は少しも茶事に心得がなかったため、どうしてよいかわからなくて思わず冷汗を流した。すると、せっかく考えていた構図がまとまらなくなって、絵がかけなくなってしまった。彼は倉皇として辞して門を出で、すぐその足で浅草観世音の境内に庵を構えていた自習軒宗意を訪ねて、即日入門したのである。
明治23年初めて帝室技芸員を置かれたとき、是真は特にぬきんでて最初の技芸員に選ばれた。そのまえからも皇室の御用はたびたび仰せつけられていた。柴田是真の名は単に国内のみではなく海外にまで識られていた。一門子弟ことごとく繁栄して、しかもまれなる長寿を保ち、悠悠として老後を送った是真の一生はすこぶる多幸であった。
その日も彼は平常と少しも変わったことはなく、例の神田川に臨んだ一室で絵筆を握っていたが、午後4時ごろのになると「少し気分がわるい」といって床をとらせて寝て、それから病勢にわかにあらたまってその夜の10時ごろには、もはやこの世の人ではなかった。それは明治24年7月13日の夜であった。

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