じじぃの「人の死にざま_1036_W・パーキン」

ウィリアム・パーキン - あのひと検索 SPYSEE
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MdNuT 045 August Wilhelm Hofmann, William Henry Perkin und Adolf Baeyer 動画 YouTube
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北九州イノベーションギャラリー Studio [KIGS]
モーブ(Mauve)は、1856年にイギリスのW.H.パーキン(W・H・Perkin)がコールタールの合成によって発見した世界最初の人工染料である。モーブは、塩基性のフェナゾニウム化合物であり、羊毛、絹、皮を直接染め、木綿をタンニン媒染で染めうるが、今日では、主として皮や紙の染色に用いられる。
http://www.kigs.jp/db/history.php?nid=2444
ウィリアム・パーキン ウィキペディアWikipedia)より
ウィリアム・ヘンリー・パーキン(Sir William Henry Perkin, 1838年3月12日 - 1907年7月14日)は、イギリスの化学者で、18歳で発見したアニリン染料やモーブ染料の発明者として広く知られている。
【発見】
1853年には15歳にして早くも、パーキンは、ロンドンの王立化学会(今日のインペリアル・カレッジ・ロンドンの一部)に入り、高名なアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンの下で学んだ。
パーキンの発見は都合よく時と場所を選んでなされたものではなかったが、イギリスは産業革命の発祥地であり、織物の生産の進歩は著しかった。そして化学という学問は工業生産に大きな影響を与えるという点で顕著であった。彼の染料の原料となるコールタールは石炭から石炭ガスを生産する際の廃棄物であった。
染料の発見は、資本家を勃興させ、大量且つ安価に製造され、綿にも適用され、商業染色会社に歓迎され、何よりも大衆の需要を創出した。パーキンは多方面において活動的であった。一連の活動のさなかで、彼は大量の資本を得、チャーチ兄弟は工場を建てた。彼は、木綿の媒染剤を発明し、その技術・サービスを操作できる第一人者となり、それを市場に公開した。
パーキンの業績において真に偉大なところは、化学と一般日常のビジネスと消費とが共存する点を突いていることにある。実際にそれは広く普及した。そして他の化学者の場合以上に彼らは裕福となった(当時の化学者は殆ど学府に閉じこもっていた)。彼らは18歳にできること以上の栄華を実現した。
その影響により、無数のアニリン染料が生まれ、数多くの色調の染料が生まれた(それらのうちのいくつかがパーキン自身によるものである)。そして彼らに関連のある工場は、広くヨーロッパ中に広がった。そして、織物と染料による国家間の商業競争が勃発した。

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アシモフの科学者伝』 アイザック アシモフ/著 小学館 1995年発行
ウィリアム・ヘンリー・パーキン――化学の不思議な国を開いた人 (一部抜粋しています)
1856年、ウィリアム・ヘンリー・パーキンは、まだ18歳にすぎなかったが、ある人の気まぐれな言葉が、彼を実現不可能な課題へと追いやることになる。彼はその課題に失敗したが、その研究の中から自分自身の名声を勝ちえたし、化学の奇跡を生み出すアラジンのランプを世界に与えたのである。
そのころ、若いパーキンは、ドイツ人の化学者A・W・フォン・ホフマンの助手であった。ホフマンは、それより11年前、イギリスに招かれ、化学を教えながら研究するためのセンターを創設していた。そのころホフマンは、主として2つのことに関心を持っていた。まず彼は、コールタールの中の化学物質に魅せられていた。コールタールというのは、石炭を空気のないところで熱したときに得られる、ねばっこい黒い物質である。それは、複雑な有機化合物のまじり合ったもので、化学者たちは、それを使って新しい化合物を作り出すことができた。第2に、ホフマンは化学を医学に応用することに関心を寄せていた。
そういうわけで、ホフマンは、ある日、大きな声でいった。「コールタールの中の化学物質からキニーネを作ることはできないのだろうか」と。キニーネマラリアをなおす薬である。
もし合成できるようになれば、南アメリカからキニーネを輸入しなくてもよくなる。
これを聞いて、パーキンは興味をそそられた。彼はコールタールの化学物質を手に入れて、自宅にしつらえた研究室で実験を始めた。当時の化学知識では、コールタールの化学物質からキニーネを作る事は不可能だということをパーキンは知らなかった。こんな不可能な課題に取り組んでもどうしようもなかったのだが……。
ある日、彼はコールタールの化学物質の1つであるアニリンと塩素酸カリをまぜ、できたありきたりの混合液をビーカーにあけようとして、ふと手を止めた。容器の底に、紫色に光るものがある。なんだろうか。パーキンは、混合液の中にあるものが溶かし出せるかどうか見ようと、それにアルコールを加えた。すると、アルコールは、綺麗な紫色に変わった。
最初の人工染料が発見されたのだ。パーキンは、まったく偶然に、色の世界のとびらを開いた。
ウィリアム・ヘンリー・パーキンは、1838年3月12日、ロンドンに生まれた。父親は建築業者で、自分の息子にも、自分と同じ道を歩かせたいと望んでいた。しかし、ウィリアムは、14歳のとき、友だちが化学の実験をしているのを見たのがきっかけで、彼は自分自身の生涯の仕事がなんでなければならないかを知っていたのである。
歴史はくり返された。かって、偉大な科学者マイケル・ファラデーは、ハンフリー・デイビーの講義を聴いて、若い情熱を燃やしたが、ウィリアム・パーキンは、マイケル・ファラデーの抗議に出席して、同じような情熱をわき立てたのである。
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パーキンにとって、もっとも必要だったのは、お金だった。銀行からは、一銭も借りることができなかった。どだい、10代の男が「石炭から色を作りたいのだ」といったところで、誰も聴いてくれるはずはなかった。だが、パーキンの父と兄とが、一生かかってためた貯金を、この事業のために投げ出してくれた。1857年、パーキン一家は、染料工場の建設にとりかかった。
彼らは、あらゆる面でまったくのゼロから出発しなければならなかった。まずアニリンをなんとかしなければならない。1857年には、アニリンの用途はほとんどなく、したがって、どこにも売っていなかった。
そこで、パーキンはコールタールから抽出されるベンゼンを法外な値段で買い、それを原料にしてアニリンを作らねばならなかった。そのためには、濃い硝酸が必要だったが、十分な濃度の硝酸も入手できない。そこで、彼はチリ硝石と硫酸とから、自分で濃い硝酸を作らねばならなかった。このような作業のすべての段階で、パーキンは、必要な化学反応を起こさせるための特別な装置を必要とした。そのような装置はどこにもなく、すべて自分自身で設計しなければならなかった。今日、染料工場で使われている装置のうちのいくつかは、いまなお、パーキンの独創的な設計にしたがって作られている。
彼は、ついにアニリン・パープルを作り始めた。
幸運の女神が、やっとほほえんだ。イギリス人がいつもそうであるように、イギリスの染物業書たちは保守的であったが、フランスの染物業書たちは、この染料を大量に欲しがった。その色は「ゼニアオイ」という花の色に似ていたので、フランス人たちは、この色を「葵(あおい)色」と呼んだ。そして、新しい流行の服にこの色を使った。パリは、そのころも、いまと同じようにファッション界の中心であった。そのため「葵色」は大いにはやり、パーキンの工場で作られる染料は、できしだい、みんな売れていった。この若い化学者は、自分が突然、豊かになり有名になっているのに気がついた。
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パーキンは、1907年7月14日に死んだ。彼以前の人々の生活は、大部分、色彩に乏しいもので、古代においては、いい染料はまれであった。フェニキアティルスの町は、ある種の貝から紫色の染料を作る方法のおかげで繁栄した。この「ティル紫」は非常に高価だったので、きわめて裕福な人たちだけしか使うことができなかった。東ローマ帝国の時代には、皇帝しか使えなかった。そのため、王家に生まれることを、英語では「紫色に生まれる」というようになった。
パーキンが生まれたときには、世界は茶色にくすんでいた。が、彼が死んだときには、世界は色彩にあふれていた。

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