じじぃの「人の死にざま_956_R・レーガン」

ロナルド・レーガン - あのひと検索 SPYSEE
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Ronald reagan - Last days - rare video 動画 YouTube
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Ronald Reagan TV Ad: "Its morning in america again" 動画 YouTube
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ロナルド・レーガン ウィキペディアWikipedia)より
ロナルド・ウィルソン・レーガン(Ronald Wilson Reagan, 1911年2月6日 - 2004年6月5日)は、アメリカ合衆国の俳優、政治家。第40代アメリカ合衆国大統領。最年長で選出された大統領(69歳)であり、唯一離婚歴を有する大統領である。身長185cm。
【概要】
1期目はアメリカ経済の回復を政策目標に掲げ、「レーガノミックス」に代表される大幅減税と積極的財政政策を実施し、双子の赤字をもたらした。外交面では、ジミー・カーター前大統領時代にイラン革命ニカラグアでのサンディニスタ政権成立によって親米独裁政権が失われており、この失地を挽回すべく、レーガンは外交に関しては殊、強硬策を貫き、ベトナム戦争以来の本格的な外国への武力侵攻をグレナダに対して行う等、「強いアメリカ」を印象づけた。しかし2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、レーガン政権の体質に対して各方面から辛辣な批判が目立った。
レーガンデタントを否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判。「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を標榜し世界中の反共主義運動を支援した。前者はソ連の解体、後者はベルリンの壁崩壊に代表される東側諸国の民主化に繋がり、レーガンは冷戦の平和的な終結に貢献した。
大統領退任から5年後、自らのアルツハイマー病を告白。公の場には出ず、闘病に専念するようになった。
2004年6月5日、長い闘病の末、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市の私邸で死去(93歳没)。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈上巻〉指導者・革命家・科学者・思想家・起業家 徳岡孝夫/訳 1999年発行
ロナルド・レーガン 【執筆者】ペギー・ヌーチン (一部抜粋しています)
クレア・ビース・ルースが、大統領は皆、ひとつのキャッチフレーズで記録されるといったのは有名な話だ。「奴隷を解放した大統領」、「ルイジアナを買い取った大統領」のように。「自分のキャッチフレーズを見つけなければだめですよ」と、彼女はジョン・ケネディに言っていた。ケネディは考え深そうにうなずいても、彼女がいなくなるとぶつぶつこぼしたりしたものだ。ロナルド・レーガンは、初めから自分がそう呼ばれたいキャッチフレーズを知っており、そしてそれを手に入れた。彼は冷戦でアメリカを勝利に導いた。彼に導かれて、半世紀にわたって西側の血と富を吸い取ってきた戦いは終わった。そして、正義が勝った。
彼がどのようにやったのかを考えてみるとよい。なぜなら、彼が戦いを終結させるために用いた才覚は、その人柄を非常によく反映しているからだ。彼はソ連を封じ込めるのではなく、体制を打ち負かすのだ、という常識的信念から出発した。これは、60年代、70年代、80年代の外交エリートたちが長年抱いてきた考え方とは一致しないが、レーガンは、神の祝福があれば、アメリカ人はどんなよいことでも成し遂げられるという古い感覚を持っていた。拡大する共産主義を世界の舞台から引きずり降ろすことは、正しい、よいことだ。どうして神が頬笑みかけてくれないことがあろうか。
彼はロマンチックな歴史観を持っている、とレーガンの伝記を書いたエドマンド・モリスは言う。それはおおよそ当たっていた。ただし彼は強靭なロマンチストである。
レーガンが初めて政界入りした1964年、フルシチョフはすでに米国を葬り去ることを誓っており、スプートニクが打ち上げられ、キューバにミサイルが配備されていたので、ソ連がいつか西側を追い抜くかもしれないと考えるのはもっともなことだった。レーガンが真剣に大統領選に臨んだ1976年には、ソ連アメリカを軍事侵略すると考えても不思議はなかった。
だが、レーガンはそうはさせまいとばかり、大統領になると、10年間約束してきたことを実行した。軍事力の強化を表明し、ソ連と世界に、そして自国民に、米国は負けるつもりはないことをはっきり示すために軍事支出を急速に増やしたのだ。
レーガンが大統領として圧力をかけ続けていたころ、ソ連では内部崩壊が始まりつつあった。彼は戦略的なミサイル防衛システムである戦略防衛機構(SDI)を強硬に推進した。ソ連はこれを、国家がどこまで開発費を負担できるかという競争であり米国の科学的革新力を見せつけようとする威嚇だ、と正しく理解した。
すべてはったりに過ぎず、そのようなシステムはこれまでにも、そしてこれからも、決して開発できないと言う者もいる。それはさておき、より意義のある事実に目を向けよう。つまり、はったりであったとしても、ソ連はそれを知らなかったという事実だ。そして、さらに重要なことは、ソ連は、レーガン大統領が真剣に脅かしをかける人物だと信じていたのである。
レーガンソ連に対して行動を起こす時、激しく共産主義を攻撃する言葉が常に伴っていた。彼は8年前、「悪の帝国」から「ミスター・ゴルバチョフ、この壁を取り壊したまえ」まで、常に人々の目を開かせ、気持ちを奮い立たせる言葉を意識的に使い、攻撃を続けた。
マーガレット・サッチャーが実にうまくこれを言い当てている。彼は言葉を選び、それを放ち、あれわれのために戦わせた。彼は説得し、世界を勝ち取り、民主主義と共産主義がどういうものであるのかを考えさせ、世界の平和を脅かしたのはどちらの体制であったのかを考え続けようとした。
これらをすべて置こう中で――「なせばなる」と大統領執務室の机の上のプレートに書いてあるかのように――彼は西側の反共主義の士気を鼓舞し続けた。アメリカ人だけではなかった。ソ連強制収容所に9年間入れられていたナータン・シャランスキーは、釈放されるとホワイトハウスへ行き、決してタカ流の発現をやめないよう、レーガンに頼んだ。シャランスキーは、強制収容所でそうした発現のニュースが囚人から囚人へと伝えられていたと話した。
レーガンが大統領として8年間絶え間なく尽力した結果、ソ連は崩壊した。そして、かってわれわれを葬り去ることを誓ったクレムリンの指導者たちは、いまやNATOへの加盟を求めている。そういえばベルリンの壁も崩壊したが、こうしたことがいまでは当たり前になってしまったという事実は、われわれが驚くべき出来事をいかに速く吸収してしまうかを物語っている。
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振りかえってみれば、彼はアメリカ政治における最後の紳士であったように思われる。彼はブル・クリントンやニュート・ギングリッジにはない優雅さと気品があった。威厳と重みと温かみとウィットがあった。イギリス人は、紳士はうっかり人を傷つけるようなことはしないと言うが、レーガンの理解はもう一歩先に進んでいる。彼は決して、故意に人を傷つけたりはしない。
しかし、彼にはあの有名な、超然とした部分があった。わたしにはまったくそれが理解できず、また、わたしの見たところ、他にも理解している者はいない。彼は自分の下で働いている人間の気持ちを、それが2年間働いた人間であっても、20年間働いた人間であっても、あまり気にかけない。彼にとって救いとなる大きな、そして人格のカギとなる美点のひとつは、彼が自分の気持ちもあまり気にかけていなかったいう点にある。信条がすべてだった。世界をもっと平和に、国をもっと自由にするための努力がすべてだった。

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