じじぃの「人の死にざま_873_P・フェルマー」

ピエール・ド・フェルマー - あのひと検索 SPYSEE
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Pierre de Fermat google doodle 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0Xl3HLLBaws
TVドキュメンタリー「フェルマーの最終定理」 Part 2/4 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=kNbrbpT8Fqs&feature=relmfu
ピエール・ド・フェルマー ウィキペディアWikipedia)より
ピエール・ド・フェルマー(Pierre de Fermat、1607年末または1608年初頭- 1665年1月12日)はフランスの数学者。「数論の父」とも呼ばれる。ただし、職業は弁護士であり、数学は余暇に行ったものである。
【業績】
数学においては、パスカルと共同で確率論の基礎を作り、デカルトと文通を交わしながらデカルトとは独立に解析幾何学を創案するなどの功績を残す。 解析幾何学については、デカルトが二次元での理論にとどまったのに対し、フェルマーは三次元空間でも考えていた。その他、幾何学微分積分学といった諸分野においても先駆的な仕事を遺しており、特に数論における仕事は独創的で後世の数論家たちに大きな影響を与えた。
『感動する!数学』 桜井進/著 2009年発行
短いほど美しい「公式」より
■ 350年前のリレー「フェルマーの最終定理
この「オイラーの公式」に勝るとも劣らないのが、フランスのピエール・ド・フェルマー(1601〜1665)が数学論の訳書の余白に走り書きしたという「フェルマーの最終定理」です。
「自分はこの定理に最終的にたどり着いたが、その証明を記すスペースがない」とその本の余白に書いたまま、彼は他界してしまいました。
そのため、後世の数学者たちは、約350年もの間、われこそはその証明をと挑戦しつづけました。
そしてついに、1995年、アンドリュー・ワイルズによってその証明がなされ、「フェルマーの最終予測」は定理になったのです。
言ってしまえばごく簡単な定理です。でもこの証明に、約350年もかかったのですから、その深みは推(お)して知るべしでしょう。
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『たまたま――日常に潜む偶然を科学する』 レナード・ムロディナウ/著 田中三彦訳/ ダイヤモンド社 2009年発行
パスカルフェルマーの往復書簡 (一部抜粋しています)
1654年、ドゥ・メレがパスカルにもち込んだ問題は<点数の問題>と呼ばれている。あなたと誰かがあるゲームをしているとしよう。2人は同等の確率を有し、ある点数を最初に獲得したほうが勝ちというゲームだ。ところが、いまリードしているほうが途中でゲームを止めるとする。その場合、掛け金をもっとも公平に分ける方法とはいぅたいどういうものだろうか? ドゥ・メレは、ゲームが途中で終了したときの点数から、各プレーヤーがゲームに勝つ確率を算出し、それを答えに反映させる必要がある、と指摘した。しかしそれをどのように計算するのか?
パスカルは、答えがなんであれ、それを計算するのに必要な方法は知られていないこと、またその手法がどういうものであれ、そうした手法はあらゆる競合的状況で重要な意味をもち得ることに気づいた。しかし、論理的研究ではよくあることだが、パスカルはその解決手順に確信がもてないばかりか、混乱さえしていた。彼は協力者が1人、いや少なくとも彼とアイデアを論じあえるような数学者がもう1日知必要、と判断した。敏腕のコミュニケーター、マラン・メルセンヌは数年前すでに他界していたが、依然としてパスカルはアカデミー・メルセンヌのネットワークとはつながっていた。こうして、1654年、数学史におけるもっとも有名な往復書簡の1つが、パスカルとピエール・ド・フェルマーのあいだではじまった。
その1654年にフェルマーは、トゥールーズの刑事裁判所である高い地位を得た。法廷では、長服を優美にまとったフェルマーが道を外した役人に火あぶりの刑を判決を言い渡すこともあったが、閉廷中は、その分析能力を数学というより優雅な目的に向けた。ピエール・ド・フェルマーはアマチュアだったかもしれないが、通常、全時代を通じてもっとも優れたアマチュア数学者であるとみなされている。
フェルマーは、何か特別な野望や業績によってその高い地位を獲得したのではなかった。彼は、上司たちがペストで死んで抜けていくにつれ少しずつ地位を挙げていくという旧式な仕方で、それを手に入れた。じつは、パスカルから手紙が届いたときにフェルマー自身がペストから回復しつつあるときだったが、彼の友人のペルナール・メドンが、すでに死んだと伝えていた。フェルマーが死んでいなかったので、ばつは悪いものの、たぶんメドンは喜び、前言を撤回した。しかしフェルマーが瀕死だったことは疑いない。結局、フェルマーパスカルより22歳上でありながら、新たに発見された彼の書簡よりさらに数年先まで生きることとなった。
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パスカルフェルマーは、往復書簡の中でそれぞれ解決手法を考え出し、いくつかの例を解いてみせた。しかし単純だったのは――そして美しくさえあったのは――パスカルの手法だった。単純であるにもかかわらず、われわれが日常生活で出くわす多くの問題につかうことができるほど、その手法は一般的だ。

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