じじぃの「人の死にざま_1200_K・ゲーデル」

クルト・ゲーデル - あのひと検索 SPYSEE
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【哲学】誰でもわかる不完全性定理【知の欺瞞】 ニコニコビューア
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ビブリオバトル0703 やまちゃん「ゲーデルの哲学ー不完全性定理と神の存在証明ー」 動画 YouTube
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不完全性定理とはなにか 感想 竹内 薫 読書メーター
1回読んだだけでは全く理解の入口までたどり着かなかったが、この著者の素人にもわかるように、大変な努力をされて配慮されていることは、数多くの寓話や事例を読むと伝わってくる。著者の3つの「ワカラン」(相対性理論量子論不完全性定理)のうちの一つで、「正しくても常に証明できるとは限らない」という不完全性定理に対する著者の格闘もよく理解できた。なんとなく「こういうことかな」とまでは行ったが、しっくりは来ない。量子論もマンガのブルーバックスで齧ったが、同じような思いだった。とにかく再読して登山口まではいきたい。
http://book.akahoshitakuya.com/b/4062578107
クルト・ゲーデル ウィキペディアWikipedia)より
クルト・ゲーデル(Kurt Godel, 1906年4月28日 - 1978年1月14日)は、オーストリアハンガリー二重帝国(現チェコ)のブルノ生まれの数学者・論理学者である。業績には、完全性定理及び不完全性定理連続体仮説に関する研究が知られる。
【略歴】
1924年ウィーン大学に入学したゲーデルは、まず物理学、のちに数学を学び、1930年には最初の重要な業績である「第一階述語論理の完全性定理」を発表し、学位を得た。
翌1931年、ゲーデル数の概念を用い、20世紀の数学基礎論、論理学にとって最も重要な発見とされる「不完全性定理」を発表した。これはヒルベルトが数学の無矛盾性を証明するために推進した「ヒルベルト・プログラム」にからんで研究されたものであるが、「数学は自己の無矛盾性を証明できない」ことを示した不完全性定理は、正にヒルベルト学派の主張した有限の立場を忠実に用い、手法としての超数学を具体化して、皮肉にもそのプログラムが本質的に不可能であることを暗示した。不完全性定理は、ジョン・フォン・ノイマンら当代一流の学者の激賞を受け、「人間の理性の限界を示した」とも評されている。
ゲーデルウィーン大学の講師を勤めたが、1940年頃にはナチス・ドイツを逃れて妻アデルともどもアメリカ合衆国に移住した。彼は米国の市民権を取得し、プリンストン高等研究所の教授となった。この研究所では、アインシュタインと家族ぐるみで親密に交流し、物理学や哲学などについて議論を交わした。
晩年は非常に内向的となり、精神にも失調をきたしていたらしく、毒殺されることを恐れる余り妻アデルが作った食事以外は自分が調理した食事すら口にしなかった。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈上巻〉指導者・革命家・科学者・思想家・起業家 徳岡孝夫 訳 1999年発行
【コンピュータ学者】アラン・チューリング(1912-1954) 【執筆者】ポール・グレイ (一部抜粋しています)
もしアラン・チューリング記号論理学の難解な分野の面倒な問題に否定的な答えを出しただけだとしたら、たいていの一般人が彼のことを今日まで記憶している理由などあまりなかっただろう。しかし、閉じた論理体系に属するある種の命題は、その体系内では証明できないこと――クルト・ゲーデルを有名にした証明から付随的に証明できる命題――を示すためにチューリングが使った方法が、世界中にとてつもない結末をもたらした。ケンブリッジ大学のこの一風変わった若き特別研究員が思いついたのは、仮想的な機械だった――比較的シンプルな、タイプライターのような装置で、理論的には無限の長さまで延長できるテープに記号化して記された命令を、読みとることができるというものだった。読み取り機がテープのひとつの区切りから次の区切りへと移動するにつれて、テープに遂次的に書かれた命令が実行され、命令によって機械の動きを変えることができる――このような行程によって、人間の論理的思考を再現することが可能だということを、チューリングは示したのであった。
この優れた思考実験の産物である装置は、すぐに「チューリング機械」と呼ばれるようになった。

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不完全性定理とはなにか』 竹内薫/著 ブルーバックス 2013年発行
ラテン語の文法を完全にマスターした子供 (一部抜粋しています)
ゲーデル1906年4月28日にオーストリア・ハンガリー帝国のブリュンで生まれた(現在はチェコ共和国のブルノ)。ちなみのこの地は「遺伝の法則」で有名なメンデルが司祭として暮らしていたことでも知られる。
ウィーン出身の父親ルドルフは、さほど学(がく)はなかったが、大きな織物工場で順調に出世し、共同経営者にまで上り詰めた。苦労人だったのである。母親は同じブリュンの織物業の家に生まれ、文学の教育を受け、フランスに留学したこともある人で、夫より14歳も年下だった。
ゲーデルの兄は父親の名前をもらい、ゲーデルはクルトと名づけられた。ふたりの兄弟は、両親の愛情の下、なに不自由ない幼年生活を送っていたが、ゲーデルは6歳のときにリウマチ熱に罹(かか)ってしまう。ほどなく快復したが、8歳のときに読んだ医学書に「リウマチ熱は心臓弁膜症の原因になることが多い」と書いてあったことに衝撃を受け、それ以降、自分は心臓が悪いのだと思い込むようになった。
実際にはゲーデルは心臓の病には罹っていなかったが、子供のころから頑固一徹で、他人の意見には耳を貸さなかったという。
ゲーデル野学校での成績は、ラテン語と数学が秀でており、ラテン語では全くといっていいほど文法的なまちがいがなかった。つまり、言語規則に対する異常なほどの才能をもっていたのだ。おそらく、ゲーデルにとっては、数学の照明問題もラテン語の作文も、同じように「厳密な規則を適用し、文を変形してゆく」作業にほかならなかったのだろう。
1923年にウィーン大学に入学したゲーデルは、将来、数学に進もうか物理学に進もうか大いに迷ったという。ゲーデルは、自らの健康状態に敏感であったせいか、首から下が麻痺していた数学のフルトヴェングラー教授の授業に感銘を受け、物理学ではなく数学に進んだのだといわれている。なにが決め手になったのかはわからないが、この物理学への興味は、後にアメリカのプリンストン高等研究所におけるアインシュタインとの深い親交へとつながり、また、アインシュタイン一般相対性理論を扱った論文として結実する。

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