じじぃの「歴史・思想_121_数学の天才・先駆者・チューリング」

5 Defining moments Alan Turing gave to the world

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sT1vmAKdbYY

Britain's £50 Note Will Honor Computing Pioneer Alan Turing

イギリスの新50ポンド札になるアラン・チューリングってどんな人?

2019年07月18日 ハフポスト
イギリスの中央銀行は7月19日、新しい50ポンド札に描かれる肖像について、「人工知能の父」として知られる数学者のアラン・チューリング(1912~1954)を採用すると、公式サイトやTwitterで発表した。
チューリングは数学の分野だけでなく、第二次世界大戦でドイツ軍の暗号を解読するなどの功績もあげた。一方で、戦後になって同性愛の罪で逮捕されたことから社会の厳しい視線にさらされ、再評価の動きが出たのは死後になってからだった。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/alan-turing-bank-note_jp_5d2d290ce4b02fd71dd92c7f

『数学の真理をつかんだ25人の天才たち』

イアン・スチュアート/著、水谷淳/訳 ダイヤモンド社 2019年発行

この機械は停止する アラン・チューリング より

●アラン・マティソン・チューリング(1912~1954年)

アルゴリズム全般の定型化を考えはじめる

アラン・チューリングの父親ジュリアスは、インド行政府の職員だった。母エセル(旧姓ストーニー)は、マドラス鉄道の主任技師の娘。2人は子供をイギリスで育てたいと思い、ロンドンへ移り住んだ。アランは2人息子の2人目。6歳で海岸沿いの町セント・レナーズの学校に入学すると、すぐにその並外れた賢さが女性校長の目にとまった。
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チューリングはとんでもなくみすぼらしい格好をしていた。スーツもめったにアイロンがかかっていなかった。ベルト代わりにネクタイを、あるいはときにはひもを使っていたともいう。笑い声は騒々しく響いた。言語障害があったが吃音(きつおん)というほどではなく、頭のなかで適切な単語を探そうと突然口ごもって、「あーあーあーあー」と言うくらいだった。髭剃りもいい加減で、夕方には口元が青くなった。神経質で社交性のないオタクだったと評されることが多いが、実際にはかなりの人気者で人付き合いもよかった。チューリングの突飛さはおもに、考える事柄でなくその考え方が独特だったことによる。何か問題に取り込むときには、誰も気づかないような角度から攻めたのだった。
1年後、チューリングは大学院でマックス・ニューマンによる数学基礎論の科目を取り、ヒルベルトの研究計画とそれがゲーデルによって否定された経緯を学んだ。そして、ゲーデル不完全性定理は実はアルゴリズムに関する定理であることに気づいた。ある問題が解決可能にあるのは、それに応えるためのアルゴリズムが存在する場合である。そのようなアルゴリズムを見つければ、その与えられた問題が決定可能であることを証明できる。決定不可能であるのを証明するのはもっと難しく、そのようなアルゴリズムが存在しないことを証明しなければならない。
しかしその前に、アルゴリズムとは何であるのかを正確に定義しなければどうしようもない。ゲーデルは実のところ、公理系における証明をアルゴリズムとしてとらえることで、この問題に取り組んでいたことになる。そこでチューリングは、アルゴリズム全般を定型化するのはどうしたらいいのだろうかと考えはじめた。

プログラム内蔵方式のコンピュータの設計とチューリングテスト

戦後、チューリングはロンドンへ移り、国立物理学研究所で世界初のコンピュータACE(「自動計算エンジン」)の設計に携わった。1946年前半には、プログラム内蔵方式の設計について発表をおこなっている。その設計仕様は、少し前にアメリカ人数学者のジョン・フォン・ノイマンが設計したEDVAC(「電子式離散変数自動計算機」)よりもはるかに詳細だった。しかし、ブレッチリー・パークに関する秘密保持の影響でACE計画の進展が滞ったため、チューリングは1年間ケンブリッジ大学」に戻り、次の大きな研究テーマである機械知能に関する論文を書いた(未発表)。
1948年には、マンチェスター大学計算機械研究所の副所長となり、準教授のポストにも就いた。1950年には論文『計算機械と知能』を掻き、いまでは有名な、機械の知能を評価するためのチューリングテストを提案した。チューリングテストとは、何か好きなテーマで永い会話を交わし、相手が人間でないかどうかを判断できなければ合格というものである(相手の姿は見えない)。論争の的になっている方法ではあるが、このたぐいの提案としては初の本格的なものだった。
チューリングはまた、仮想的なマシンのためのチェス・プログラムに関する研究も始めた。そのプログラムをフェランティ・マーク1というコンピュータで走らせようとしたが、メモリーの容量が小さすぎたため、手計算でプログラムのシミュレーションをおこなった。そのマシンは現存していない。しかしそれからわずか46年後に、IBMのディープブルーがチェス名人のガルリ・カスパロフを破り、さらに1年後には、改良版のプログラムがカスパロフに2勝1敗3引き分けで勝利した。チューリングは時代を先取りしすぎていただけなのだ。
1952年から54年までチューリングは、数理生物学、とくに動植物の形やパターンの系制、いわゆる形態形成の研究に転向した。開発したのは葉序学、すなわち、植物の構造にフィボナッチ数が関係しているという驚きの傾向について。フィボナッチ数とは、2、3、5、8、13……というように、各項が前の2つの項の和になっている数のこと。チューリングび最大の業績は、パターン形成をモデル化した微分方程式を書き下したことである。