じじぃの「人の死にざま_855_開高・健」

開高健 - あのひと検索 SPYSEE
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[CM]サントリー ウイスキー ローヤル モンゴル・幻のイトウ編 開高健 1987年 動画 YouTube
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開高健記念館 動画 YouTube
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開高健 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
開高健は、日本の小説家。
【生涯】
1954年2月22日、すでに壽屋社員であった羊子が育児のため退社するのに伴い、後任者として壽屋宣伝部に中途採用され、PR誌『洋酒天国』の編集やウイスキーのキャッチコピー(トリスウイスキーの「人間らしくやりたいナ」が有名)を手がける。この時代に『裸の王様 』で芥川賞を受賞、これを機に壽屋を退職し、執筆業に専念。
1964年、朝日新聞社臨時特派員として戦時下のベトナムへ。サイゴンマジェスティック・ホテルを拠点に南ベトナム政府軍に従軍して最前線に出た際、反政府ゲリラの機銃掃射に遭うも生還。総勢200名のうち生き残ったのは17名であった。『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇(未完)』の3部作はこの戦争での凄烈な体験をもとに書かれている。
帰国後は小田実らのベ平連に加入して反戦運動をおこなったが、まもなくベ平連内の反米左派勢力に強く反発し脱退している。その後は過激化する左派とは距離を置き、谷沢永一向井敏などの「右翼文化人」を世に出した。
熱心な釣師としても知られ、日本はもちろんブラジルのアマゾン川など世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げ、『オーパ!』、『フィッシュ・オン』など釣りをテーマにした作品も多い。現在では浸透している「キャッチ・アンド・リリース(釣った魚を河に戻す)」という思想を広めたのも開高だと言われている。また食通でもあり、食と酒に関するエッセイも多数ある。
1989年、食道癌の手術後、『珠玉』を脱稿するも再入院、食道腫瘍に肺炎を併発し死去。58歳没。墓所は鎌倉・円覚寺塔中、松嶺院にある。死後、開高の業績を記念して、1992年から2001年までTBSブリタニカ(現阪急コミュニケーションズ)が開高健賞を、2003年から集英社がノンフィクションを対象に開高健ノンフィクション賞を創設した。また、後半生の16年間を過ごした神奈川県茅ヶ崎市開高健記念館が開設されている。

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『知識人99人の死に方』 荒俣宏/監修 角川文庫 2000年発行
開高健(かいこうたけし) (1930-1989) 58歳で死亡。(一部抜粋しています)
酒、美食、釣りをこよなく愛し、豪放磊落(らいらく)を絵に描いたような作家、開高健は、おびただしい血と死を見た人物でもあった。開高は昭和35年の訪中以来、世界を股にかけ、ベトナム戦争中東戦争、ビアフラ戦争の取材にも出かけている。なかでも従軍記者として、サイゴンを訪ねた際には、北ベトナム兵に取り囲まれ、九死に一生を得た。そのため「生きながら”命日”をもつ男」と称するジャーナリストもいる。
「真実は死と同じに捉えにくい」と呟(つぶや)きつつよく酒を飲んだ開高は、雑誌『Voice』(S.60.12)のインタビューに応えてこう語る。「血なり、死体なり、これを皆知らなさすぎますね」「バンドエイド張ったら止まる血だけしか見ていない」。作家は”実際の現場”に立ち会うべきだという思いが、この開高の言葉にはある。それが単なる純文学の枠内にとどまらず、ルポルタージュにも傑出した才を見せたゆえんである。
大阪市天王寺生まれの開高は、大阪市立大在学中、大胆にも一度も授業に姿を現わさずアルバイトと同人雑誌に没頭。卒業後は寿屋(現サントリー)に入社し、宣伝部でコピー製作に従事する。昭和22年『裸の王様』で芥川賞受賞。この年、最後まで賞を競ったのは大江健三郎の『死者の奢り』であった。
毎日新聞(H元.4.7)紙上で「もうオレは食うもの飲むものすべてやって、みな卒業した。やってないのは自殺だけや」と言い放った開高だが、実は前年末から背中を激痛が襲い、すでに平成元年3月19日には食べ物が喉を通らなくなっていた。
4月17日は、済生会中央病院で食道ガンを切除。しかし、ガンは横隔膜まで転移しており、放射線治療が続く。入院中の開高はこの間、病状についてはいっさいきこうとせず、見舞客には「モンゴル歴代王朝の墓がまだ見つかっていない。ジンギス汗はオレの最後のロマンだ」とはしゃぎながら語っている。
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入院前に書き始めた『珠玉』の最終章を死と競うように書き終え、10月13日再入院。このとき、肝機能が極度に低下して、黄疸が現われ、ひとりでは歩けない状態だった、にもかかわらず病床で最終ゲラまで目を通すことも怠らない。そして「できたよ」と言って編集者に渡した後、安堵したのか2週間足らずでみずからの死という”現場”へ赴く。

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