大内兵衛 - あのひと検索 SPYSEE
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『マルクス・エンゲルス小伝』 大内兵衛 Augustrait
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大内兵衛 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
大内兵衛は、大正・昭和期の日本のマルクス経済学者。専攻は財政学。日本学士院会員。
【生涯】
兵庫県西淡町(現在の南あわじ市)出身。洲本中学、五高を経て東京帝国大学経済学科を首席卒業(1913年に銀時計受領)
大蔵省の書記官を経て、1919年に東大に着任、財政学を担当した。在任中は労農派の論客として活躍。1920年森戸事件に連座して失職、数年後復職。GHQの占領時には、当時大蔵大臣だった渋沢敬三が、日銀顧問に迎え、東京裁判でも証言台に立った。1949年に東大退官後は、1950年より1959年まで法政大学総長。向坂逸郎と共に社会主義協会・社会党左派の理論的指導者の一人として活躍した。門下の美濃部亮吉の東京都知事立候補を強く支持し、美濃部都政を助けるなど、実践面でも社会主義を貫いた。
傾斜生産方式で日本の経済復興を促進させた有沢広巳は門下である。
東大安田講堂事件について論じた論文「東大は滅してはならない」(雑誌「世界」1969年3月号)で、「大学という特殊部落」という表現の記述があり、部落解放同盟の追及を受けたことがある(同誌3月号は回収し、4.5月号で謝罪)。
また次男大内力も、同じくマルクス経済学者で元東京大学教授・副総長だった。
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
大内兵衛(おおうちひょうえ) (1888-1980) 92歳で死亡。 (一部抜粋しています)
太平洋戦争後、社会党の理論的バックボーン、美濃部都政の生みの親といわれた大内兵衛は、昭和49年86歳のとき妻を失ってからめっきり弱り、身体はともかく意思の表現がうまく口に出せなくなって、人に会うのもいやがるようになった。
昭和54年初夏から、老衰のため鎌倉の病院に入院したが、肺炎をひき起こし、55年5月1日、眠るようにこの世を去った。
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大内兵衛 Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A7%E5%86%85%E5%85%B5%E8%A1%9B&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=XsI5TvbQC6ffmAWup6y4Bw&ved=0CEMQsAQ&biw=983&bih=553