じじぃの「人の死にざま_969_河上・肇」

河上肇 - あのひと検索 SPYSEE
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日本ニユース 1946.2.23 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=KL-gS1eMYtk
藤原書店 甦る河上肇
なぜ河上肇は中国で愛されてきたのか?
毛沢東が、周恩来が、『貧乏物語』を読んでいた! 革命前後の中国で、最も多くその著作が翻訳され、最も知的影響を与えた日本人社会科学者、河上肇。厖大な史料と河上自身の知的ルーツを踏まえて初めて明かされる、河上肇という環を通じた日中間の知的交流の全貌。
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=570
河上肇の中国への影饗
(8)河上肇 [マルクス主義批判者の批判』 (希望閣, ー929年) の訳であろう。
(11)毛沢東周恩来も 「貧乏物語」 を読んだとされているが (一海知義河上肇と中国の革命家たち」 『河上肇そして中国』 等参. 照), 毛沢東周恩来がどちらの「貧乏物語] を読んだのか,あるいは周恩来は日本語で読んだのか, 今のところ分からない。
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/33202/1/WasedaKeizaigakuKenkyu_46_Mita.pdf
日本人は何を考えてきたのか 「第8回 人間復興の経済学をめざして 〜河上肇と福田徳三〜」 2012年7月29日 NHK Eテレ
【出演】内橋克人(経済評論家)、八木紀一郎(摂南大学経済学部長) 【司会】三宅民夫アナウンサー
大正から昭和の時代、貧困などの社会問題に取り組んだ経済学者がいた。日本のマルクス経済学研究の草分け、河上肇、そして厚生経済学を提唱した福田徳三である。2人は、論争し合いながら、日本に経済学を普及させていった。
河上は、ヨーロッパ留学で資本主義社会の矛盾を目の当たりにし、「貧乏物語」を発表、時代を代表するベストセラーとなる。しかし、同書が批判を受けると、マルクス主義経済学の研究を続け、資本主義経済の枠組みそのものの変革を目指すようになる。河上の思想は日本のみならず、毛沢東周恩来ら中国にも影響を与えていく。
一方、ドイツで学んだ福田は、生存権、労働権を主張し、社会政策への強い関心を抱いていた。関東大震災の直後に被災地を歩いて、社会調査を行い、「復興経済」を被災民の立場にたって構想した。晩年に厚生経済学を研究し、今日の福祉国家構想の先駆けとなった福田の研究は3.11後、改めて注目を集めている。
番組では「人間復興の経済学」を模索する経済評論家の内橋克人さんが、「経世在民」を貫いた2人の経済学者の姿を追う。
http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0729.html
河上肇 ウィキペディアWikipedia)より
河上肇は、日本の経済学者である。京都帝国大学マルクス経済学の研究を行っていたが、教授の職を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。カール・マルクス資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン三十二年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー『貧乏物語』で知られる。死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。名文家であり、漢詩もよく知られている。
貧乏物語 (河上肇) ウィキペディアWikipedia)より
貧乏物語は河上肇の評論である。第一次世界大戦下の日本で社会問題化となりこれをきっかけに、1916年9月1日から同年12月26日まで大阪朝日新聞に連載。翌1917年に出版され、ベストセラーとなった。
第二次世界大戦後の1947年に岩波書店岩波文庫に出版。2008年に新日本出版社に出版した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
河上肇(かわかみはじめ) (1879-1946) 67歳で死亡 (一部抜粋しています)
河上が共産党員なるがために投獄され、5年の刑期を満了し、58歳で出獄してから4年目に、日本は太平洋戦争に突入した。
戦争が終わったとき、戦争に反対した河上も老化と飢餓のために病床にあった。
「大きなる饅頭(まんじゅう)蒸してほほばりて茶をのむ時もやがて来るらん」「死ぬる日と饅頭らくに買へる日と二ついづれか先きに来るらん」「もしも天われに許さば 蒸したての熱き饅頭たべて死にたし」
終戦の日に「あなうれしとにもかくにも生きのびて戦やめるけふの日にあふ」と歓喜の歌を詠んだ彼は、日本の敗戦を心からよろこぶ権利を持つきわめて少数の日本人の一人であった。しかしその彼も、たちまち「今ははや再び起たむ望みなしいざやしづかに死を迎へなむ」と悲しみの歌を詠まなければならなかった。
その年の秋、彼は知人への手紙に書く。
「……お目にかかった当時と違い、今ではすっかり老衰の境に追い込まれ、辛うじて最後の一線に踏み留まっている処です。食料がいよいよ不自由になり、四人世帯で二日目に鼠のシッポのような大根一つ、おろして小皿にやっと一杯、それが六度分の副食物ですが、それすらない日があり、自家耕作の体力も空き地もなく、買出しにゆく人手もなく、法外の闇を漁る金力もなき老生如きは、餓死の外ないのですが……」
「なんでも書ける世の中になり乍(なが)らなんにもよう書かぬ老耄(ろうもう)さ残念ですが致し方ありません。……」
そして翌年1月30日、肺炎を併発した河上は、洛東の小屋で清らかな息をひっそりとひきとった。直接の死因は肺炎だが、河上は、栄養失調死というより餓死をとげたといってもいい。

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河上肇 Google 検索
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