じじぃの「人の死にざま_879_周・恩来」

周恩来 - あのひと検索 SPYSEE
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記録片-周恩來 動画 YouTube
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周恩来キッシンジャー米中秘密会談 動画 YouTube
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周恩来 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
周恩来中華人民共和国の政治家。字は翔宇。妻は訒穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。
中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務める。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも知られている。
【生涯】
周恩来江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれた。周恩来が13歳となった1911年、辛亥革命起きる。翌1912年、清朝が崩壊し、中華民国が建国された。1913年、周恩来は天津の南開中学校に入学し、革命の息吹に触れる。
南開中学卒業後の1917年に、日本に留学。日本語の習得不足により第一高等学校と東京高等師範学校の受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現政治経済学部)に通学。
日本では勉学に励む他、友人と活発に交流して祖国の将来について語り合っている。
周恩来江青ら四人組との激しい権力闘争を強いられたが、最後まで毛沢東に信任され、実権を握り続けた。1975年には国防・農業・工業・科学技術の四分野の革新を目指す「四つの現代化」を提唱し、後の訒小平による「改革・開放」の基盤を築いた。
周恩来文革の最中、長時間の紅衛兵との接見や膨大な実務に奔走した。十数時間も執務し続けることも珍しくなかった。これに前述の孫維世の件など激しい心労も加わり、彼の体は病に蝕まれていった。最晩年に周恩来自身が侍医に「文革によって寿命が十年縮まった」と語ったとされる。
【評価】
1972年のニクソン大統領訪中のお膳立てをしたキッシンジャーは、周恩来を「今までに会った中で最も深い感銘を受けた人物」の一人に数え、「上品で、とてつもなく忍耐強く、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。
国連事務総長だったダグ・ハマーショルドは「外交畑で今まで私が出会った人物の中で、最も優れた頭脳の持ち主」と証言している。
ノロドム・シハヌーククメール・ルージュに苦しめられた経験などから反共主義者だったが、周恩来だけは高く評価していた。その理由を尋ねられたシアヌークは「だって、彼のほうが私よりよっぽど王族らしいじゃないか」と答えている。
周恩来伝』を書いたジャーナリストのディック・ウィルソンは、周恩来ケネディネルーと比較し、「密度の濃さが違っていた。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と最大級の賞賛をしている。
また、1954年以来チャーリー・チャップリンとも親交を持ち(ジュネーヴ会議出席の際、1952年からスイス在住であったチャップリンを訪ねている)、彼の作品の一つ「黄金狂時代」の名シーンであるチャーリーが靴を食べる場面を見て、長征の際の苦難を思い出し、懐かしがったと言う。
日本でも周恩来に傾倒した著名人は多く、日本人70名が寄稿した文集『日本人の中の周恩来』がある。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店 (一部抜粋しています)
周恩来(しゅうおんらい) (1898-1976) 78歳で死亡
毛沢東はその後半生において、かって自分のライバルであった者は、すべてこれを失脚させるか、非業(ひごう)の死に追い込んだ。ただ一人周恩来のみはこの運命をまぬがれ、「不倒翁」という異名をとった。
周恩来はその声望においても毛沢東をしのぐものがありながら、政治上いちども毛にとって代る野心を見せたことはおろか、その後継者たらんとしたこともなかった。彼は毛に対して痛性の態度を崩さず、晩年の毛の暴挙とも思われる文化大革命にすら加担のそぶりを見せた。
彼はただ毛沢東を怖れ、保身のために忍従の道を選んだのであろうか。それとも次善の策として、始皇帝ともいうべき毛にぴったりより添い、その暴走に一足でもブレーキをかけるのを自分の天命と考えたのであろうか。
周恩来毛沢東の批判者であったことは、彼が全て後事を託したのが訒小平であることを見れば明らかである。
しかし、彼がその命を終えようとする時点においては、まだ、毛は生きていた。5歳年上の毛沢東周恩来よりなお8ヵ月余命があったのである。
周恩来前立腺ガン、膀胱ガンのため、北京の首都病院で3ヵ月以上も重体のつづいたあと、1976年1月7日、昏睡からさめて、「私のところはいいから、他に病人のところにいってやりなさい。そっちのほうが君たちを必要としているから」と、医者や看護婦に、力をふりしばっていった。これが最後の言葉となった。
翌朝1月8日午前9時57分に絶命した。
その他最後の様相、彼の心境について、信頼出来る記録はない。そもそも周恩来自身、超人的な活動を示しながら、政治上の演説や報告以外、まとまった論文や回想録のたぐいはまったく残さない人物であった。
彼は毛に対してひとことの批判もしなかったのに、それでも彼を毛の批判者と見る中国の大衆は、それから3ヵ月後の4月5日、天安門広場に集まって周恩来追悼のために人民英雄記念碑に無数の花束を捧げ、これを市当局が撤去したことから騒乱を起し、いわゆる「天安門事件」が勃発した。

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次回の知ってるつもり?!
2000/8/13 放送 血のリストラ!! 江青vs周恩来
http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/000813.html