じじぃの「科学・芸術_979_中国・鄧小平時代」

精彩片段》張宇韶:1992年鄧小平南巡到深圳政治喊話…【年代向錢看】190306

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鄧小平 南巡講話

『中国の歴史を知るための60章』

並木頼壽、杉山文彦/編著 赤石書店 2011年発行

鄧小平時代 改革開放と政権防衛 より

1977年、鄧小平(とうしょうへい)は民衆の擁護のなか、再度復活を遂げ、1978年末ごろ全権力を掌握したが、鄧小平は終始党最高指導者の職位に就こうとせず、1994年当時の江沢民(こうたくみん)党総書記に全権を委譲するまで、最高実力者として中国をリードした。
毛沢東(もうたくとう)時代と同様、鄧小平時代もカリスマ統治の時代であったが、鄧小平はカリスマとしても権威を利用して中国における「改革開放」の時代を開いた。鄧小平時代は1991年までの改革派と保守派の闘争期とそのあとの市場経済路線の確立期に分けられる。鄧小平は1997年2月に逝去した。
鄧小平は復活後、毛沢東の後継者である華国鋒(かくこほう)を辞任に追いやり、改革派の胡耀邦(こようほう)を党総書記に任命し、同じく改革派の趙紫陽(ちょうしよう)を首相に抜擢して一連の改革開放政策を推し進めた。改革開放政策は「経済が中心」「対外開放」「思想解放」「安定保持」などの鄧小平ワンフレーズでいいあらわされていた。
鄧小平は階級闘争や革命ではなく、「経済をすべての仕事の中心とすること、「発展こそ鉄則である」ことを唱え、そしてそのために市場メカニズムの導入という経済改革、および資本主義世界への対外開放を進めた。1979年と80年、中国政府は広東省の深圳(しんせん)市、珠海市(しゅかい)市、汕頭(スワトウ)市、福建省厦門(アモイ)市を経済特区に指定し、対外開放の第一歩に踏み出した。
改革開放には思想解放が必要であぅた。鄧小平は「毛沢東の指示はすべてではなく、実践こそ真理を検証する基準である」として、1980年に毛沢東の過ちに対する総括をおこなった。そしてその前後に、共産党外資系および民間企業を許可し、農村で請負制というかたちで農地を農民に返して人民公社を解体していった。また文化大革命をはじめ1957年の反右派闘争以来の毛沢東の革命運動を否定して彭徳懐(ほうとくかい)、劉少奇(りゅうょうき)をはじめ迫害された幹部と知識人の名誉回復をおこなった。さらに地主、富農、反革命分子、資産階級、右派といった階級区分をするための身分を取り消し、毛沢東時代に「資産階級分子」と定められた知識人を「労働者」と分類して、階級が消失したとして階級闘争終結を宣言した。
鄧小平は全国民を労働階級と規定したうえ、労働階級の代表である共産党がまさに全国民を包括して代表する政党であるとして、共産党である一党支配体制の再構築を目指した。中国の政治体制は、毛沢東の個人独裁体制から、建国初期に共産党が築いた全国民を代表する共産党による一党支配体制という「包括的党国体制」(「孫文モデル」)に回帰した。
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1989年4月、胡耀邦は心臓発作で急逝した。人々の脳裏に1976年1月の周恩来(しゅうおんらい)の死、4月からの民衆による自発的な追悼集会、「4・5天安門事件」という情景が甦った。
4月17日、北京大学学生を先頭に、学生と市民は天安門広場でデモをおこない、一部の学生はそのまま座り込み、野宿を開始した。学生たちは言論・結社の自由、胡耀邦の名誉回復、保守派の退陣などを内容とする請願書を発表し、一定の成果が得られるまで天安門広場に留まると表明した。学生運動はたちまち全国の主要都市に波及し、市民からも強く支持され、連日北京などの大都市で100万人、数十万人のデモ行進が繰り広げられた。
しかし、1ヵ月たって一定の成果どころか、当局より「反革命政治動乱」と決めつけられた。学生たちは、学生3000人のハンストを発動して当局に圧力をかけた。
鄧小平は武力鎮圧の方針を決め、5月20日李鵬(りほう)首相は北京市戒厳令を布告し、翌日車は北京市に入った。学生と市民は強く反撥し、国際社会にも学生を支持・支援する運動が広がった。人口600万の香港では100万人規模の抗議でもがおこなわれ、日本でも3000人規模の中国人留学生の抗議デモが発生した。軍は天安門広場への進軍を止めた。
6月初め、学生たちは当局の固い姿勢に絶望し、疲労もピークに達し、天安門広場での活動が自然消滅に流れはじめた。ところが、鄧小平は6月3日夜、軍に天安門広場への進軍を命じた。北京市民は車の進軍に激怒し、道々で激しく抗議・投石などをおこない、車は発砲して弾圧し、大規模な流血衝突に発展した。のちの当局の発表でも319人の死者が出たという。6月4日未明、車は天安門広場に残っている1000人ほどの学生を解散させた。これは「6・4天安門事件」であった。
鄧小平の武力鎮圧の方針に対して、党総書記趙紫陽と党政治曲常務委員胡啓立(こけいりつ)は、反対した。鄧小平は趙紫陽を解任して、上海市党委員会書記の江沢民を後任に抜擢した。
「6・4天安門事件」は先進諸国からの経済制裁を招き、国内でも改革開放の停滞をもたらし、経済成長は2年続けて低迷していた。
1992年2月、鄧小平は南方各地を視察し、各地での一連の発言を「南巡講話(なんじゅんこうわ)」として公表して勝規格会報の加速に号令をかけた。鄧小平は「社会主義と資本主義の論争をしない」ことを厳命し、「経済発展に利することこそ政治対英を評価する基準である」ことを強調し、そしてはじめて市場経済化を改革開放の目標として明確に打ち出した。「南巡講話」は改革派と保守派の論争を終止させ、中国の改革開放を再び軌道に乗せた。