じじぃの「人の死にざま_844_C・ド・ゴール」

シャルル・ド・ゴール - あのひと検索 SPYSEE
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Biographie du general De Gaulle 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=d_WDjEyY99A&feature=related
100人の20世紀 『ド・ゴール 動画 nicotter
http://nicotter.net/watch/sm1429443
La Marseillaise, French National Anthem (Fr/En) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=4K1q9Ntcr5g
ド・ゴールチャーチル 〜ナチス・ドイツ フランス侵攻の30日〜 2010年9月19日 NHK BS Hi
第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるフランス占領から、今年でちょうど70年。当時、ドイツへの徹底抗戦を呼びかけ、レジスタンス運動の出発点となったのは、ド・ゴール将軍によるBBCでのラジオ演説だった。この歴史的な演説の舞台裏では、ド・ゴールとイギリス首相チャーチルの間で、水面下の駆け引きが行われていた。
http://www.nhk.or.jp/co-pro/recent/20100919.html
シャルル・ド・ゴール フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール(1890年11月22日 - 1970年11月9日)は、フランスの陸軍軍人、政治家。フランス第五共和政初代大統領。第二次世界大戦においては本国失陥後ロンドンに亡命政府である自由フランスを樹立し、 レジスタンスとともに大戦を戦い抜いた。戦後すぐに首相に就任した後、1959年には大統領に就任して第五共和政を開始し、アルジェリア戦争によって混乱に陥っていたフランスを立て直した。
【経歴】
1890年11月22日に、イエズス会学院の校長(歴史科を教えていた)を務める父アンリの元、フランス北部の工業都市リールに生まれた。
ド・ゴールは、第二次世界大戦における緒戦の戦功により、フランス軍史上最年少の将軍となる。
1941年10月25日にはジャン・ムーランと会見、一つの大きな組織「レジスタンス国民会議」を作るためムーランを極秘裏にフランス本土に派遣する。また自ら自由フランス軍を指揮してアルジェリアチュニジアなどのフランスの植民地を中心とした北アフリカ戦線で戦い、対独抗戦を指導した。
ド・ゴールはこれを念願実現の好機として、大統領に強権を与え、議会の力を抑制する新憲法を立案し、ただちにこれを国民投票に付した。同年9月に行われた国民投票で圧倒的な賛成を得て新憲法が制定され、フランス第五共和政が成立、ド・ゴールはその初代大統領に就任した。ド・ゴールは、以後1969年に退陣するまでの11年間、強権的とも言われた政権運営をもってフランスの内外政策を強力に推進することとなる。
この11年間に初めてフランスの政局は安定し、その巧みな経済政策によってフランスは高度経済成長を遂げ、外交の面でもフランスの地位は急速に高まった。

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『世界の「いま」がスッキリわかる! 逆さ読み世界史』 歴史の謎研究会/著 青春出版社 2011年発行
フランス ヨーロッパの歴史をそのまま体現する国 (一部抜粋しています)
2010年秋のフランスで、大規模なデモやストライキがたびたび起きたことを覚えているだろうか。交通機関がマヒしたり美術館が休館になるなど、観光客にも少なからず影響があった。
これらは、サルコジ政権が掲げた年金改革法案に対する抗議だった。大人ばかりでなく、高校生まで授業をボイコットするという形で反対の意思を示したのだ。
フランスはストやデモが多い国である。日本人の感覚からすると少々大げさな行動に見えるかもしれないが、自分の権利を主張する、納得できないことには断固として異議を唱えるのがフランス人の気質なのである。
彼らは行動によって自分の意思表明することで、社会を変えてきた歴史を持っている。今のフランスは共和政を敷いているが、これは市民が自分たちの手で勝ち取った権利なのである。
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現在のフランスは、1958年にシャルル・ド・ゴールが開始した第5共和政の流れを受け継いでいる。第5という数字を見てもわかるとおり、フランス革命で誕生した共和政は紆余曲折の道をたどっている。今日に至るまでフランスの政治形態はさまざまに変化してきたのである。
革命後にはロベスピエールを中心とした恐怖政治が行われたが、対立する者を次々と弾圧するやり方に人々の不満が募り、ロベスピエールは失脚し、ついには処刑されてしまう。
この機に乗じて登場したのがナポレオン・ボナパルトだ。当初ナポレオンは、政治的、社会的混乱をまとめる強力なリーダーを求めていた市民に歓迎された。国の安全を確保したり、革命の成果を肯定する「ナポレオン法典の制定といった功績が支持され、国民投票で皇帝に即位している。この期間を「第1帝政」という。
しかし、対外政策の失敗によってナポレオンもまた失脚する。流されていたエルバ島を脱出し、いったんは皇帝に返り咲いて巻き返しを図ったものの、復権はなし得なかった。
次に国民が選択したのは王政復古だ。ただし、不況と選挙権を持たない市民の不満が「2月革命」を引き起こし、第2共和政が樹立される。
ここで成立した政府に納得できなかった市民は、ナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオンを大統領に選出。クーデターで独歳を獲得したルイ・ナポレオンは、ナポレオン3世として第2帝政を開始するのだ。
ナポレオン3世は各種の戦争に介入するなど積極的な対外政策を行なったが、プロイセンに敗れたのをきっかけに民衆が蜂起して帝政は倒された。ちなみにこの敗戦は、臨時政府と民衆が結成したパリ・コミューンとの内戦という事態も引き起こしている。
その後、第3共和政が成立し、第二次世界大戦後には第4共和政に移行した。そして植民地だったアルジェリアの独立紛争が収支できないことが原因で第4共和政も崩壊。こうしてド・ゴールによる第5共和政のスタートとなったわけである。
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現在のサルコジ大統領は親米路線に変更しており、EUの中でもドイツとともにリーダー的な役割を果たしている。とはいえ、自己主張の強い国民をまとめるのは至難の業のようである。

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