じじぃの「歴史・思想_12_世界史大図鑑・ロベスピエール(フランスの革命家)」

FRENCH REVOLUTION | Educational Video for Kids.

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=IIDfZ-8o4jE

フランス革命

ウィキペディアWikipedia) より
フランス革命(French Revolution 1789年5月5日 - 1799年11月9日)は、フランスの資本主義革命(ブルジョア革命)。フランス革命を代表とする資本主義革命は、封建的な残留物(身分制や領主制)を一掃し、
・資本主義の発展(法の下の平等・経済的自由・自由な私的所有等)
・資本主義憲法の確立(人民主権・権力分立・自由権(経済的自由権)等の人権保障を中心とする原理、典型例としてフランス憲法
を成し遂げた。
ロベスピエール一派の粛清によって革命は転換点を迎えた。過激な革命運動は沈静化し、ブルジョアジー勢力が復権する。1795年10月26日、国民公会が解散されて総裁政府が成立したが、フランソワ・ノエル・バブーフによる陰謀が持ち上がるなど体制は不安定であった。1799年、ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが執政政府を樹立した。
革命によって生まれたフランス第一共和政は、ナポレオン独裁による執政政府の開始によって約10年で終わった。さらに、ナポレオンによるフランス第一帝政を経て、ナポレオンの失脚後にはブルボン王朝が復活した(フランス復古王政)。
バスティーユ襲撃
国王政府の軍隊集結によって緊張が高まるなか、7月11日に国民に人気のあったジャック・ネッケルが罷免された。これに怒った民衆は、1789年7月14日、当時は火薬庫であったバスティーユ牢獄を襲撃した。
パリでの事件が伝えられると争乱はフランス全国に飛び火し、暴動を起こした農民達が貴族や領主の館を襲って借金の証文を焼き捨てるという事件が各地で発生した。
【ヴァレンヌ事件】
革命勃発により、貴族や聖職者など特権階級の多くが国外へ亡命を始めていた。1791年、国王と民衆との仲介者であったミラボーが死ぬと、過激化する革命を嫌ったルイ16世は、マリー・アントワネットの愛人とされるスウェーデン貴族フェルセンの助けを借り、王妃の実家であるオーストリアへ逃亡しようと企てた。

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『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

陛下、これは革命でございます バスティーユ牢獄襲撃(1798年

マクシミリアン・ロベスピエール より

弁護士であり、1798年には全国三部会の第3身分の代表となったロベスピエール(1758年~94年)は、1793年9月から1794年7月までにフランスを席巻した恐怖政治の中心人物だった。
弱い立場の人間をつねに擁護した非凡な弁舌家で、、演説では支持者たちを大いに熱狂させただけでなく、政敵の心を揺さぶった。また、軍を強化すれば反革命に火種になりかねないとして反対の対場をとった。少なくとも当初は死刑廃止論者のひとりだったが、その後の意識の変化は驚くほど極端だった。革命を推進するのは恐怖政治こそが最も効果的な手法だと考えるようになり、恐怖政治は革命を前進させる徳を自然と支えるものであると論じて、それを徹底的に守ろうとした。ロベスピエールは、いまもなお。みずからが信じる大義のためであれば国家的暴力もいとわない人間の原形とされ、身の毛もよだつ好例である。学者を迎え入れて文化を奨励し、大学を設立するという一面もあった。

国外からの脅威 より

世情は混迷をきわめたが、新たな社会秩序の構築は進んでいた。1791年9月、立憲君主制が宣言された。同様に、教会が持つ特権的地位が強制的に奪われたが、これによって混乱と暴力が長引くことになった。決定的に重要なのは、報道の自由が主張されたことだった。
一方で、革命下のフランスは、オーストリアプロイセンという国外からの脅威にさらされた。どちらも世襲君主制の優位性をあらためて主張し、自国内での革命の動きを未然に封じようとしていた。1792年4月、フランスは両国に対して宣戦を布告し、戦争はその形を変えながら23年間つづいた。8月には、オーストリアプロイセンの連合軍がパリの160キロ圏内にまで迫っていた。
パリの街は一種の恐慌状態に陥った。国王一家が幽閉されていたテュイルリー宮殿に暴徒が押しかけ、警備についていたスイス人衛兵を虐殺した。翌月には、国王派の疑いがかけられた人々が多く殺されたる。1792年9月にはまた、選挙によって国民公会が召集され、フランス第1共和政の樹立が宣言された。新たな政権はルイ16世国賊として裁く裁判に取り組み、1793年1月、ルイ16世は処刑された。

歴史上の意義 より

フランス革命は、現在でも変わらず激しい歴史論争の的である。その理念は明確で、それは君主による圧政や特権階級から成る強固な体制を徹廃し、代議制の政府を作りあげて、人間の普遍的権利を擁護することであった。しかし現実には、その過程は混乱をきわめ、暴力が介在する事件が多発した。
その後、1804年までに、ナポレオンが実質的に自らを中心とする絶対主義体制が確立したが、その力はルイ14世の治世以降に類を見ないほど強大となった。しかしフランス革命の帰結は、のちの世界に影響を強く残した。それは、文明社会を下支えするのは自由であるという理念を貫くにあたって、最も重要な歴史的事件として、いまなお受け止められている。