じじぃの「免疫寛容・年齢とともに寛容さが失われる?やわらかな生命」

免疫寛容 (ameblo.jp HPより)

恥を恐れる日本人が「孤独」に陥る納得理由

2019/01/22 東洋経済オンライン
日本では、孤独が肯定的に捉えられがちなこともあって、対策はまったく進まず、日本は世界に冠たる「孤独大国」化しているが、アメリカのカイザー家族財団と英誌エコノミストと共同で昨年8月に発表した3ヵ国調査で、日本人独特の「孤独」に対する意識と問題点が浮かび上がった。
まず第1点目は、日本では、「孤独が自己責任」と考えられているということだ。その割合は日本では44%とアメリカの23%、イギリスの11%と比べて圧倒的に高かった。
https://toyokeizai.net/articles/-/261188

『やわらかな生命』

福岡伸一/著 文藝春秋 2013年発行

不寛容なカラダ より

フランス文学者の渡辺一夫は、寛容と不寛容を比べてこんな風に述べている。
  過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開される現実を眺めても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不寛容になった実例をしばしば見出すことができる。しかし、それだからと言って、寛容は、自らを守るために不寛容び対して不寛容になってよいという筈はない。(略)
  ただ1つ心配なことは、てっとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見える不寛容のほうが、忍苦を要し、卑怯にも見え、女々しく思われる寛容よりも、はるかに魅力があり、「詩的」でもあり、生甲斐をも感じさせる場合も多いということである。あたかも戦争のほうが、平和よりも楽であると同じように。(『寛容について』)
私たちの身体に備わっている免疫系は、外敵の侵入に対して断固として戦う。移植に対しても生じる激烈な拒絶反応はその最たる例である。本来、無害無毒であるはずのスギ花粉に対しても過剰な反応を示し、そのため私は、くしゃみ、鼻水、涙にさいなまれる。つまり免疫系は基本的に徹底的に不寛容である。
しかし、ときとしてこの不寛容は不思議な一面を見せる。その他者が、冷たいしうちにもめげず、繰り返し、たえまなく訪問を続けると、それを受け入れてしまうことがあるのだ。まるで窓の下に夜ごと現れて、愛をささやき続けた若者を、女が最後に許して戸を開けてしまうごとく。
あるいは免疫系は、長く不毛な闘いを続けること自体がエネルギーの消耗であることを悟って、無駄な抵抗をあきらめるのかもしれない。この現象には実に優雅な名称がつけれれている(生物学者は本来、詩的なのである)。

免疫寛容。生命は厳密であると同時に柔軟である。不寛容が寛容さを示すこともあるのだ。

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どうでもいい、じじぃの日記。
40~64歳でひきこもり状態にある人が、全国で推計で61万人になるそうだ。
5月28日、神奈川県川崎市の登戸で通り魔事件があった。
あるテレビでは、ひきこもりが起こした事件と解説していた。
多くの人々が殺傷されたことを受け、ネット上である言葉が飛び交っている。
「死ぬなら一人で死ね」