じじぃの「人の死にざま_517_ボードレール」

シャルル・ボードレール - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB/16629/
Charles Baudelaire - Hymne a la beaute (Poeme) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=s-Q87doHJlA&feature=related
ボードレール悪の華】より 画像
http://koebu.com/images/topic/2/23/23fc/23fc7ed83c5ae288fe7876a1676231cd5be05f0f.jpg
シャルル・ボードレール フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
シャルル・ピエール・ボードレール(ボドレール)はフランスの批評家、詩人。「フランス近代詩の父」と呼ばれる。
【生涯】
若くして美術批評家として文壇にデビューを果たし、特に当時、物議を醸していたロマン主義画家のドラクロワに対する熱心な弁護と評価を行った。
ルイ・オーギュスト・ブランキの中央共和派協会に入会し、二月革命には赤いネクタイを巻いて参加レアリスト画家クールベらと友好を結び、プルードンと会う。
生前発表した唯一の詩集『悪の華』が摘発され、そのうちの6編が公序良俗に反するとして罰金刑を受ける。
【評価】
ボードレールは詩という文学空間の可能性を最も早い時期に提示した詩人であり、彼の後に続くランボーヴェルレーヌ、そしてマラルメらに決定的な影響を与えたことから、「近代詩の父」と称される。また、批評活動でも優れた功績を残している。特に『現代生活の画家』の中で展開されるモデルニテ(近代性、現代性)の理論は19世紀フランスのキータームであり、彼以降の詩人たちは、それぞれのモデルニテを探ることとなる。

                                • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ボードレール (1821-1867) 46歳で死亡 (一部抜粋しています)
ボードレールは、21歳のとき、元老院事務局長で、退職後絵を画いて余生を過ごした亡父の遺産7万5000フランを相続したが、2年間の「美的生活」でその大半を蕩尽(とうじん)して準禁治産者となり、以後一生借金だらけの生活を送った。
1857年、36歳のときに出版した詩集『悪の華』は公序良俗に反するとして罰金刑に処せられたのみならず、極めて少数の識者を除いては、この詩集の価値を認める者もなかった。
1864年、借金に追い詰められた彼は、その地獄から逃れるためと、また少しでも収入を得るために、ベルギーのブラッセルに文藝講演旅行に出かけたが、聴衆はほとんどなく、講演料も何分の1かに値切られ、彼はベルギー人が大きらいになった。それでも彼は債鬼の待つパリへ帰るわけにゆかず、依然ベルギーで講演旅行をしてまわらなければならなかった。
翌年7月14日、友人に語っている。
「ねえ君、僕がものを書き出してから、一体どれだけの金を儲けたか知っていますか。あらゆる評論、詩、翻訳を合わせて、1万5892フラン60サンチームだ」
当時の貨幣価値を今に換算するのは難しいが、同時代日本の幕末期の1両が5フランに当たるという。とにかくボードレールは、20年前の若いころ、2年間で使った金の5分の1しか、自分の力では、一生に得られなかったことになる。
その年の暮ごろから彼の病気の発作は次第に烈しくなった。彼は40歳ころから健康を害していた、それは梅毒によるものであった。
翌1866年、彼は友人に書いている。
「・・・・この20ヵ月、僕はほとんど絶えず病気でした。去年の2月には、烈しい頭痛か、刺すような鋭いリューマチが2週間つづき、12月にはまた同じ症状を起こした。この1月のある晩には、僕は酔っぱらいのように転んで、とんぼ返りしはじめ、家具にしがみついた。そして胆汁や白い泡を吐いた」
1866年3月中旬、彼はベルギーのナミュールのサン・ルー教会にゆき、突然また発作を起こして石だたみの上に倒れ、それ以来半身不随と失語症を起こして、カトリック系の慈善病院にいれられた。
他家に再婚して、また未亡人になっていた母がフランスから駈けつけた。老いたる母は知人に知らせた。
「舌は痺れるいまいのに、あの子は音の記憶を失ったのです。ノン、キ、キ、というのがあの子の発音できる言葉で、それを声を限りにさけんでいます。脳が軟化しているのは事実です」
失語症のくせに、髪を冒とくするような言葉をしきりに吐くので修道尼たちのひんしゅくを買い、7月に彼は母に付き添われてパリに帰り、シャイヨーの水治療法の病院にいれられたが、病状回復せず、そのまま1年を過ごした。
翌1867年8月15日には、シャン・ド・マルスで開かれた第2回万国博覧会の花火が、病室の窓にもひびいて来た。
      ・
8月31日、彼は74歳の老母に手に抱かれて死んだ。
背徳の詩集と呼ばれた『悪の華』の芸術性が認められたのは20世紀にはいってからで、彼の死後50年を経てからのことであった。

                                • -

シャルル・ボードレール Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=QR1WTeqCIIy0vgO-5422BQ&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCwQsAQwAA&q=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1