じじぃの「人の死にざま_1167_L・カルノー」

ラザール・カルノー - あのひと検索 SPYSEE
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Carnot Cycle 1 動画 YouTube
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カルノーサイクル Google 検索
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カルノーサイクル
http://homepage2.nifty.com/eman/thermo/carnot.html
ラザール・カルノー ウィキペディアWikipedia)より
ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー(Lazare Nicolas Marguerite Carnot, 1753年5月13日 - 1823年8月2日)は、フランスの軍人、政治家、数学者。フランス革命戦争にあたってフランス軍の軍制改革を主導し、「勝利の組織者」と称えられた。政治的には穏健な共和主義者の立場を貫き、反対派からも尊敬されたという。また数学者としても功績を残した。著名な子孫たちとの区別のため大カルノーとも呼ばれる。
【著名な子孫】
ラザール・カルノーの子孫たちは各分野で業績を残した。長男のニコラ・レオナール・サディ・カルノー (1796 - 1832) は物理学者で、カルノーサイクルの考案者である。次男のラザール・イポリット・カルノー (1801 - 1888) は「カルノー法」で知られる政治家である。次男の子のマリー・フランソワ・サディ・カルノー (1837 - 1894) はフランスの大統領にまで上りつめた。同じく孫のマリー・アドルフ・カルノー (1839 - 1920) は化学者で、カルノタイト(カルノー石)の発見者である。
カルノーサイクル ウィキペディアWikipedia)より
カルノーサイクル(英語:Carnot cycle)は、温度 , の間で動作する可逆熱サイクルの一種である。一般に、あらゆる可逆熱サイクルは同じ効率を持つ。可逆熱サイクルは最も効率のよいサイクルである。可逆サイクルよりも効率のよい熱サイクルは存在しない。
カルノーサイクルは実際には実現不可能だが、限りなく近いものを作ることは可能であり、スターリングエンジンはこれに近い。
ニコラ・レオナール・サディ・カルノーが熱機関の研究のために思考実験として1820年代に導入したものである。これによって本格的な熱力学が始まり、熱力学第二法則エントロピー等の重要な概念が導き出されることになった。

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『栄養学を拓いた巨人たち 「病原菌なき難病」征服のドラマ』 杉晴夫/著 ブルーバックス 2013年発行
カルノー父子が開いた熱力学の扉 (一部抜粋しています)
ラザール・カルノーは、1753年、フランスの地方都市ボーヌに法律家の子として生まれた。彼は工兵隊将校として勤務する余暇に数学・物理学を研究し、著書『一般機械試論』を出版した。このなかで彼は、現在のわれわれが学校の理科の授業で教えられる[力] X [距離] = [仕事]が、機械の効率を決める物理量であることを指摘している。カルノーフランス革命に際してロベスピエールらとともに指導者となり、のちに総裁政府の総裁の一人として活躍する傍らで、数学に関する論文を発表した。ナポレオンのクーデター成功後は陸軍大臣に就任するが、ナポレオンが権力欲を露わにして終身執政さらには皇帝になるとき、共和制を守るため断乎反対した。
やがてロシア遠征に失敗して皇帝の座を追われたナポレオンは、流されていたエルバ島から脱出してパリに帰還すると、政敵であったカルノーに内務大臣になるように懇請し、カルノーはこれに応じた。いかにカルノーの力量と人格が認められていたかがわかる。しかしナポレオンがワーテルローで敗れフランスが王政に戻ると、カルノーはこれに失望してプロイセンのマグデブルグに亡命し、1823年、ここで生涯を終えた。
ところで、「天才」とは遺伝するのか環境によるものかがよく論議されるが、筆者の私見では天才が遺伝することに疑いの余地はない。ただし天才が開花するのは、環境が整えられることが必要である。その意味でカルノー親子においては、遺伝による才能と、その才能を育む環境が理想的なかたちで実現されている。これと比肩する例としては「楽聖」バッハ一家が挙げられよう。
ラザール・カルノーの息子、サディ・カルノーは1796年に生まれ、父から数学、物理学の教育を受けてパリのエコール・ポリテクニクに入学し、当時、パリに侵攻してきたヨーロッパ諸国連合軍との戦闘に参加した。ついで工兵学校に入学し、卒業後は工兵将校を務めたがこれに馴染めず、やがて休暇をとり研究に専念した。
1821年、サディは祖国に失望した父が亡命生活を送っていたマグデブルグを訪問し、親子はここで数週間をともに過ごした。余命が長くないことを自覚したラザールはこのとき、自分と同じ天才を持った息子に、政治家としての激務の合間を縫って心血を注いだ熱機関の問題の完成を託そうと、学問上のバトンタッチをおこなったようである。実際にサディは父との会話から啓示を受け、1824年、「火の動力に関する考察」と題した論文を発表した。これは彼が発表した最初の、そして最後の論文となった。現在のわれわれが学校で「カルノーサイクル」として学習するこの不朽の論文についてはのちに説明する。
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この場合、水と水蒸気はこの期間を動かす媒体として働いているが動力源は明らかに、水を沸騰させ水蒸気を発生させる熱にほかならない。それまで人類が使用してきた動力源(つまりエネルギー源)は、人力と畜力しかなかったので、熱がエネルギーとなることの発見は、人類文明史上の画期的な出来事であった。この初期の蒸気機関はジェームス・ワットに改良され、英国で起こった産業革命の原動力となった。

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